比較文学する研究会
比較文学する研究会:研究者支援プログラム

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Last Updated 2000/6/3

学会リポート007

中古文学会・全国大学国語国文学会秋季合同大会


日  時 ■ 2000年10月14日(土)〜15日(日)

会  場 ■ 甲南女子大学

特派員 ■ 毛利美穂(「比較文学する研究会」管理人)


14日はシンポジウム「源氏物語はなぜ読まれるのか」。
15日は研究発表で、以下のとおりである。

午前の部(9:30〜12:30)

■第1会場■

  • 源氏物語の「養い親・養い子」
    (村田 郁惠)
  • 二世女王の婚姻 ――朝顔の姫君を中心に――
    (新山 春道)
  • 『源氏物語』における「涙」の性差について
    (盧 亨美)
  • 語りの方法としての「正身」
    (白石 佳和)

■第2会場■

  • 藤原実頼の家集について ――『清慎公集』と『小野宮殿集』をめぐって――
    (能登 好美)
  • 『大鏡』の方法 ――〈天皇紀〉における天皇の描かれ方――
    (伊神 絵里)
  • 紹巴所用『狭衣物語』とその意義 ――『狭衣下紐』を手がかりに――
    (川崎 佐知子)
  • 三巻本『枕草子』「里は」章段について ――名称の選択と配列の持つ意義――
    (原 由来恵)

■第3会場■

  • 万葉集の禁止表現の訓読
    (花輪 茂道)
  • 「そがひに」私見
    (尾崎 知光)

■第4会場■

  • 墨川亭雪麿と戯作
    (佐藤 至子)
  • 江戸時代の子供の読み物と絵双六
    (加藤 康子)

午後の部(13:40〜16:00)

■第1会場■

  • 源氏物語と唐の史実 ――賢木巻にみえる御息所の経歴を中心に――
    (郭 潔梅)
  • 『紫式部日記』清少納言評再読
    (山本 淳子)
  • 道綱母の転居と養女迎えの意味するもの
    (野中 和孝)

■第2会場■

  • 『うつほ物語』の《風》の表現
    (三浦 則子)
  • 「源氏物語」雨夜の品定めと〈歌語り〉
    (岡山 美樹)
  • 『大和物語』の虚構構図
    (岡部 由文)
  • 観世音菩薩普門品の文学
    (廣田 哲通)

■第3会場■

  • 高橋新吉の戦後
    (野本 聡)
  • 啄木の詩集『あこがれ』に関する一考察 ――詩型とリズムをめぐって――
    (高 淑玲)
  • 民衆詩派の詩人・白鳥省吾の「土俗の精神」考 ――郷土愛を貫いて――
    (千葉 貢)

中古文学会と全国大学国語国文学会の合同大会ということで、発表がとにかく多かった。
14日のシンポジウムは用事が入ったため聴講できなかったが、15日の研究発表は参加した。午前の部は第2会場、午後の部は第1会場で聴講。興味ある発表が分散しているため、会場をハシゴしたい気持ちはやまやまであったがこればかりはしかたない。とはいえ、いざ聞いてみるとなかなか興味深い発表もあって、おもしろかった。

目的とする発表は「『大鏡』の方法 ――〈天皇紀〉における天皇の描かれ方――」。
発表趣旨は、(1)『大鏡』を日本紀ダイジェストとして想定できないか、(2)『大鏡』が大和物語をどのように引用していったか、(3)『大鏡』の語りの方法(記憶の再構築)、の3点にまとめられるだろう。さほど珍しい観点ではないが、自分の専門とリンクするところもあり興味深く聞いた。

が、やはり個人的に盛り上がりを見せたのは午後の部の「源氏物語と唐の史実 ――賢木巻にみえる御息所の経歴を中心に――」の発表である。

『源氏物語』賢木巻の六条御息所の経歴部分を挙げておこう。

心にくくよしある御けはひなれば、ものみ車おほかる日なり。さるの時にうちにまゐり給ふ。みやす所御こしにのり給へるにつけても、ちちおとどのかぎりなきすぢにおぼし心ざして、いつきたてまつり給ひし有さまかはりて、すゑの世にうちをみ給ふにも、物のみつきせず、あはれにおぼさる。十六にてこ宮にまゐり給ひて、廿にておくれたてまつり給ふ。卅にてぞ、けふまたここのへをみ給ひける。
見識の高い、美しい貴婦人であると名高い存在になっている御息所の添った斎宮の出発の列をながめようとして物見車が多く出ている日であった。斎宮は午後四時に宮中へおはいりになった。宮の輿に同乗しながら御息所は、父の大臣が未来の后に擬して東宮の後宮にそなえた自分を、どんなにはなやかにとり扱ったことであったか、不幸な運命のはてに、后の輿でない輿へわずかに陪乗して自分は宮廷を見るのであると思うと、感慨が無量であった。十六で皇太子の妃になって、二十で寡婦になり、三十で今日また内裏へはいったのである。――という内容の個所である。

従来、この16・20・30歳の年齢が年立て上矛盾しているといった論があるが、この発表はその行き詰まった観点に新たな方向性を示唆しようというものである。

発表者は、第一に「廿にて」を従来の20歳ととらえるのではなく20代ととらえ、同じく「卅にて」を30歳ではなく30代としてとらえることを提案する。すると「20代で前坊に先立たれ、30代で今日また内裏に入った」となり、従来の年齢の矛盾が解決されるとしている。
第二に、「こ宮」すなわち「故宮」を、従来の「前坊」とはとらえず、「古い宮殿」「滅びた王朝の宮」ととらえ、その後の宮中を意味する「ここのへ」すなわち「九重」と対応させていると指摘。
第三に、父の経歴から御息所の経歴へと筆を進めるようすと、『旧唐書』本紀第6「則天皇后」の記事の類似点を指摘する。「則天皇后」本紀では、武后は14歳で太宗後宮に入るが、『資治通鑑』巻195の注異によると16歳で後宮に入るとなっている。そして、26歳の時に太宗崩御に伴い感業寺に出家して、31歳の時に高宗後宮に迎えられるのである。すなわち、武后は16歳で後宮に入り、20代で寡婦となり、30代でまた後宮に迎えられることになる。なお、武后の父も大臣クラスであったことを付け加えておく。

では、さきほどの御息所の経歴と比較してみよう。

御息所の16・20・30歳の年齢を、16歳・20代・30代ととらえ、「故宮」と「九重」の新解釈も加えると、御息所は16歳で後宮に入り、20代で前坊に先立たれ、30代でまた後宮に入る――となり、武后との類似点が見られるのである。
質疑応答では、「故宮」を「滅びた王朝の宮」ととらえるのではなく、やはり「前坊」としてとらえるべきだとする意見があった。それは納得できるこではあるが、なぜそう解釈するかという説明の仕方が「私たち(日本人)ならばそう考える」という実に曖昧な方法だったのが、発表者を混乱させたようだ。「故宮」の表記が「前坊」ととらえる場合もあれば「昔の宮」ととらえる場合があるという例を挙げて批判されていた方もいたが、今後はその比較をするようにうながせばいいだけのことであろうが、発表者にはうまく伝わっていなかったように思われる。
『源氏物語』の表記の中で「古」と「故」の表記の違いを検討されてはいかがだろうか。『源氏物語』のような一貫性のある文章ならば、その違いくらい明確になされていると思う。

最後に、報告者が質問したかったことをひとつ挙げておこう。

発表の最後に、「則天皇后」本紀から考えると、20代で寡婦となり、30代で再び後宮に入った御息所の経歴は、藤壷の経歴ともとれると発表者は述べる。すると藤壷のイメージも先帝の寵愛を受けたというよりも先帝亡き後、新帝に寵愛されたという藤壷像が見えてくるのではないか――というまとめだったのだが、いきなりの藤壷の登場にかなり戸惑いを覚えた。唐突すぎて理解できなかったので、次はこの辺りをまとめてほしいものである。

「故宮」と「九重」という過去・現在の対比もなかなか興味深いものがあり、新たな読みを示唆する発表だろうと報告者は感じた。しかし、1つ難を言えば、オリジナリティーはあるのだが、従来の研究史をふまえていないこと、その先行研究の上に新たな読みを提供するという過程が窺えないこと、そしていささか論が乱暴であったことだろうか。みなさんはどのように感じられただろうか。


なお、このリポートは2000/10/16に公開したものを、今回、中古文学会関西支部会第1回例会を公開するにあたり、辺り障りのない感想であったことがずっと気になっていたので、若干変更した。




源氏物語

げんじものがたり。
平安中期の物語。54巻。作者は紫式部。
一般に三部構成と見る。第1部は、1・桐壺(きりつぼ)から33・藤裏葉(ふじのうらば)。第2部は、34・若菜上から(番外)雲隠(くもがくれ)。第3部は、42・匂宮(におうみや)から54・夢浮橋(ゆめのうきはし)である。橋姫以下10巻を一般に〈宇治十帖〉と呼ぶ。

物語は、桐壺帝最愛の第2皇子は生母が帝の寵愛を受けるところからはじまる。美貌のゆえに「光源氏(ひかるげんじ)」と呼ばれる皇子は、幼くして母を亡くし帝の元で養育され、亡き母に似た父帝の中宮藤壺(ふじつぼ)に恋をする。だが、それは禁じられた恋であった。生母・桐壺更衣の身分が低いため臣籍に下された光源氏は、藤壺の面影を求めてさまざまの女性と恋の遍歴を重ねるが、結局、藤壺との間に罪の子・冷泉帝が生まれる。父帝の死と共に源氏は逆境に陥り、須磨、明石にさすらうが2年後に許されて帰京する。以後は幼帝の後見として勢威が備わり、六条院の大邸宅を築いて、最愛の紫上(むらさきのうえ)のほか関係のあった女性たちを集めて住まわせる。源氏の地位は太政大臣から準太政天皇に達した(以上第1部)。初老の源氏は兄朱雀院に頼まれてその皇女女三宮(おんなさんのみや)と結婚する。未熟な宮はやがて青年柏木と密通し、薫(かおる)を生む。夫の裏切りに傷ついた紫上も傷心の末病死する。悔恨と追憶の1年を経た歳暮に、源氏は出家の用意を整える(以上第2部。なお雲隠巻は名のみで内容はない。後人の注記が巻名に誤られたらしい)。薫は聖僧のような源氏の異母弟の八宮を仏道の師として宇治へ通ううちに、その娘の大君に心を寄せる。大君は薫を受け入れず、妹の中君(なかのきみ)をと望む。窮した薫は友人の匂宮を中君に手引きするが、大君は心痛、病死する。薫はやがて大君に似た異腹の妹浮舟を宇治に隠して通いはじめる。この事をかぎつけた好色の匂宮は、さっそく出かけて浮舟をわが物とする。板挟みとなった浮舟は投身をはかるが、救われて、小野の僧庵に入って尼姿となり、やがてその生存を知った薫の迎えにも応じようとはしなかった(以上第3部)。

書名は、古くは『源氏の物語』が普通だったらしく、鎌倉時代には『光源氏物語』と呼ぶことが多い。ほかに『紫の物語』の称もあり、略して『源氏』『源語』ともいう。

日立デジタル平凡社 LAN世界大百科事典より引用・要約

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