比較文学する研究会
比較文学する研究会:研究者支援プログラム

Since 1999/9/14
Last Updated 1999/9/14

学会リポート001

第17回 山片蟠桃賞」贈呈式・記念講演


日  時 ■ 1999年3月18日(木)

会  場 ■ リーガロイヤルホテル

特派員 ■ 毛利美穂(「比較文学する研究会」管理人)


「比較文学をする研究会」を作ろうと考えはじめたきっかけは、99年3月18日(木)、大阪府にあるリーガロイヤルホテルで行われた「第17回 山片蟠桃賞」贈呈式・記念講演です。

受賞者は、ヴィエスワフ・コタンスキ博士

その記念講演「『古事記』は上代日本文化の反映 〜私の研究活動をめぐって〜」に、私はある衝撃を受けました。

講演の内容は、次のようなものでした。


古事記の言語学研究は、本居宣長・橋本進吉を元とする。
特に前者は大衆にも理解しやすく研究の主流となった(1970年代、博士もはじめは本居を継承するような研究に着手した)。しかし、現在は先人の行った解釈を元にしてさまざまな解釈をするのみであり、これではさらなる発展はみられないだろう。
では、本居をこえるにはどうすればいいか。
その糸口として博士は、それまで考慮されなかった「音の高低の違いによる声調」を分析する。 文体には一貫した表記方法があるので、それをもって解読する必要があると考えたからである。
博士はこの方法によって「古事記」の神名を解読し、それをキーワードとして「古事記」の文化的意味を読み取った。
神名とは各民族に貢献した名で、ある物や人の本質を示す。すなわち象徴化された神名には、当時の宇宙観が反映されており、その文化的視点から「古事記」を解釈したわけである。


当時、研究会設立準備していた私は、この講演によって、視点を変えることが研究の向上につながることを再確認できたわけです。

そして、その研究会は4月に発足しました。
それにあきたらず、なぜまた、「比較文学する研究会」を作ったのか。

ズバリ! より多くの見解を求め、学外に活動の場を求めたからです。

とりあえず実験的な発足ですが、いったい、どのような研究成果が発表されるのか、楽しみです。




山片蟠桃賞

近世大阪の生んだ世界的町人学者である山片蟠桃の存在をあらためて想起し、その名にちなみ、日本文化の国際通用性を高めた優秀な著作とその著者を顕彰し、併せて大阪の国際都市としての役割と、文化・学術の国際性を高めることを目的とする。

「第17回 山片蟠桃賞」パンフレットから引用・要約

山片蟠桃(1748-1821)

大坂の豪商升屋(ますや)の大番頭として活躍すると共に、『夢ノ代(しろ)』を著して、封建制下に驚くべき合理主義を展開した、江戸時代後期の町人学者。本名は長谷川有躬(はせがわ ありみ)、のち山片芳秀(よしひで)と改めた。通称は升屋小右衛門(こえもん)、蟠桃(ばんとう)はその号である。

播磨国印南郡神爪(かづめ)村(現、兵庫県高砂市)に生まれ、大坂に出て升屋の別家を継いだが、本家升屋の苦境に際して敏腕をふるい、仙台藩にかかわりつつ、仙台藩および升屋の財政再建に成功した。しかも升屋を、全国数十藩を相手とする大名貸に成長させた。これにより、1805(文化2)年升屋の親類並み(親類次席)にあげられたが、晩年はほとんど失明した。公儀から徳行を賞されてもいる。

学問は、懐徳堂(かいとくどう)で中井竹山(なかい ちくざん)・履軒(りけん)に儒学を学び、さらに麻田剛立(あさだ ごうりゅう)に新しい天文学を学んで、蘭学にも深い関心を持つに至った。生涯を通じての学問上の成果は、大著『夢ノ代』12巻に集大成されている。卓抜な経済論をとなえ、一切の神秘主義を否定して無神論を主張するだけでなく、地動説を確認したうえで、宇宙には私たちの太陽系と同じものが無数に存在するという、大胆な大宇宙論さえ展開した。この創意と創見とに満ちた現実的・合理的思想は、近代的世界観成立史上、とりわけ光彩をはなつものである。

「第17回 山片蟠桃賞」パンフレットから引用・要約

ヴィエスワフ・コタンスキ博士

ポーランド共和国 ワルシャワ大学名誉教授。

第2次世界大戦のさなかにあって、いち早く日本語を学習し、戦後まもなく日本学修士を得た。ポーランドにおける日本研究の草分けであり、以後50年にわたって日本研究の中心となり、後進を育てた。ポーランドにおける日本研究の第一人者である。

「第17回 山片蟠桃賞」パンフレットから引用・要約

古事記(こじき)

奈良初期に編纂された天皇家の史書。(本質的には神話とみなした方が妥当か)
上巻は神々の物語、中・下巻は神武天皇から推古天皇に至る各代の系譜や、天皇家を中心とする物語である。

編纂が最初に企てられたのは天武朝(673‐686)。
その序文によると、壬申の乱を経て即位した天武天皇が、諸氏の所有する〈帝紀・本辞〉の誤りを正すために稗田阿礼(ひえだのあれ)にそれを誦習させた。すなわち、諸氏族が伝えた神話や系譜伝承を、天皇家の立場から整理しなおし、その地位を確認させるための神話としてまとめあげようとしたのである。だがその御代には完成せず、30数年後、元明天皇の詔をうけて太安麻呂(おおのやすまろ)がこれらを筆録し、712年(和銅5)正月に献上したとある。

TOPへ

学会・研究会に参加した方の感想を随時募集します。

分野が違うとなかなか参加できないのが学会や研究会。
臨時特派員となって、当日の模様を教えてください。

詳しくは募集要項をご覧ください。


このページに関するご意見・ご感想は → メール

Copyright (C) 1999-2016 "比較文学する研究会" All Rights Reserved.