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Last Updated 2002/5/11

発表025

ファンタジーの手法:酒見賢一『後宮小説』の分析から

毛利 美穂


はじめに

 出版界がファンタジー部門に関心を寄せた事例としては、三井不動産販売の創立20周年記念事業の一環として、読売新聞社と共同主催、新潮社、日本テレビ放送網の協力で創設された日本ファンタジーノベル大賞の登場が有名である。そして、この賞の登場によって日本におけるファンタジーノベルの質が飛躍的に向上したといえよう。

 本稿では、日本ファンタジーノベル大賞受賞作を取り上げ、その文学理論的分析を試みることによってファンタジーノベルを形成するファンタジーの手法について考えていきたい。

1.酒見賢一『後宮小説』の分析

 酒見賢一『後宮小説』は、1989年第1回日本ファンタジーノベル大賞受賞作品である。同年12月5日新潮社より発行、テレビアニメ化を経て、1993年4月25日に文庫となった。選考委員の作家・井上ひさし氏は「シンデレラと三国志と金瓶梅とラスト・エンペラー」の魅力を併せ有つ、奇想天外な小説と評している。

 梗概を引用すると「時は槐暦元年、腹上死した先帝の後を継いで素乾国の帝王となった槐宗の後宮に田舎娘の銀河が入宮することにあいなった。物おじしないこの銀河、女大学での奇抜な講義を修めるや、みごと正妃の座を射止めた。ところが折り悪しく、反乱軍の蜂起が勃発し、銀河は後宮軍隊を組織して反乱軍に立ち向かうはめに……。さて、銀河の運命はいかに」とある。さらに加えると、槐宗は反乱軍に殺害されて素乾国は滅び、後日譚で締めくくられる。

 この作品は筆者の視点で描かれ、あくまでも正史を元にした評伝として筆を進めている。

 当該作品において気づいた要素は、次の点である。

(A)空想は現実的
(B)読者の知的要素を刺激
(C)作家の想像→創造
(D)個性による独特な形式・構成
(E)完成=美
(F)再生表象の喚起
(G)不易流行論
(H)真実を表現するための虚構

(A)空想は現実的

 この作品の特徴として、具体的な年代、依拠する文献を挙げている。

  • 腹英三十四年、現代の暦で見れば一六〇七年のことである。
  • この稿を書くにあたり、拠ることになる文献は「素乾書」「乾史」「素乾通鑑」の三種で、前二者は宮廷の史官によるいわゆる正史である。「素乾通鑑」は無官の歴史家天山遯が著した歴史通釈の書であり、官に阿らない点、正史と違った面白味がある。
  • 「世の婦人がかように遊妓に趣き、剰え入宮に趨るようになったのも、畢竟、羞恥の心を忘れたからであることは論を待たない。――中略――ただし、美、能を兼ね備えた者が婦人乍らに栄耀栄華を致さんと欲すれば、妓女となって富貴の者に引かれるか、王宮に属し妍を競いて章かに成るほか無い」(「箕松先生随文」巻三)
  • 「素乾城後宮のトンネルが、かように面倒な作りになった理由を知ったとき、(中略・引用者)『はるばる東の果てまで来て、くだら ないセックスジョークを聞かされてたまるか』と言った。余はまた哄笑した」(「素乾城の思い出」エリサレム・ジャコメル)
  • 銀河たちに後宮教育が開始されたのは、槐暦元年(一六〇八)六月のなかばであった。正確な日付は分からないが、同じ月に新帝の即位式が行われている。こちらの日付は、六月十八日(一説では十七日)とはっきりしている。
  • U大の東西文化研究の第一人者M・ハワード博士が、「銀正妃とリヒトシトリ侯爵夫人が同一人物であるという考察」という論文を発表をものにした。

 まことしやかに記されているが、素乾書の素と乾の二字はこれが架空の書であることを示している。素は「形式のともなわない」、乾は「理由のない」という意がある。「美学入門」においてルフェーブルは「偉大なる古典作品、偉大なスタイルを持つ作品では、空想は現実ばなれしていない。その逆である。空想は無媒介なものや、現実の表皮を乗り越える手段であって、偉大な創造者たちは、それに導かれて現実の深味に至り、現実の深い諸傾向を見分けることが出来るのだ。リアリズムを自然主義から分つ側面の一つは、想像力の介入である」と述べている。つまり、現実を表面だけで見るのではなく、その奥まで想像によって類推することによってリアルに描き出されるということである。この作品はその応用編といえる。

(B)読者の知的要素を刺激

 偽も真に見せてしまうこの作品だが、ファンタジーだからといって筆者はなにも偽ばかりを記しているわけではない。事実銀河が女大学で学ぶ〈気〉や房中術等の古典医学についての説明等は真であり、筆者の博識ぶりを垣間見せられる。

  • 気は体内を循環する一種のエネルギーらしい。気には−と+があり(陰と陽)、その循環とバランスによって人の生命は完うされる。気が多かるべき場所に気が少なく、気が少なかるべき場所に気が多かったり、気が活発に循環せず鬱滞を生じたり、陰陽の気がアンバランスになったりすると、人間は発病すると説明される。(以下略・引用者)

 この作品自体が一種の歴史小説であるから、要所要所にちりばめられた古代中国の風俗・哲学等の知識が読者の知的興味を刺激し、満足させるのである。興味については、『文学評論』において夏目漱石は3つに区別している。「(1)小説中の性格(character)より起る興味、(2)小説中の事件(incident)より起る興味、(3)小説中の景物(scene)より起る興味」である。この作品では、以下のような文がそれに該当するだろう。

(1)もっとも宦官は大なり小なり屈折しているのが当然であるが、この場合教養があったことが重要なのである。人為的に非男性になったことに付きまとう劣等感と、帝王の最側近であるというプライド、さらに権勢欲、自己顕示欲など性欲以外の欲望が複雑に天秤に掛けられてゆく。

(2)江葉の故郷茅南州は、二百年ほど前までは「中華の外」の民族であった。素乾に併合される前の習俗が色濃く残っている。現在も茅南省獅葉県の一部では未だに通い婚が行われていると聞く。

(3)蘇江を渡ると地形は北磐関の方へ向かって扇状にせばまる。その芯の部分に北磐関の城塞があり、衛星のように出城が分布している。

(C)作家の想像→創造
(D)個性による独特な形式・構成
(E)完成=美
(F)再生表象の喚起

 ガストン・バシュラール(「空と夢」)とサルトルは、根底にある作家の想像(ここでは中国哲学を専攻していた筆者の知識であろう)が創造を生むという。筆者は技巧的要素におけるニューマンの「彼の思想や感情が個性的であるように、彼の用語もまた個性的である」という論にいうように言語を自分の目的に従い、個性に従った使い方をすることにおいて成功している。それはすなわち「芸術家一家言」における谷崎潤一郎の「生み出すことが直ちに形式を考へることであり、技巧を用ひることであり、文体を練ることであって、生み出さるべき何物かはそれらの技巧や形式に即して存在するのである」の論を実証していることにもなる。その表現に対して受け手である読者は、再生表象の喚起を行うことによって、ハドソンの「実際に見ているように、読者の心に起こさせる映像」を得るのである。

(G)不易流行論

 では、形式についてはどうか。

  • 『乱ノ前、新正妃立ツ。幼名ヲ銀河ト称シ緒陀県ノ民庶ヨリ出ヅ。父母ノ名ハ知ラズ』
  • 『民庶男子、尽ク寡ト為リ、恰モ宮セラルルガ如シ。臣下、百姓ノ枯レ果テンコトヲ怕ル』
  • 『ソノ容色、古今ノ名華ヲ凌駕シタリ』

 二重括弧でとじられた文は登場人物の心の声、もしくは参考文献からの抜粋として漢文を読み下した風に書かれてある。一見して意味がわからないものに関しては、その横に意訳が付けられている。この構成は、読み手には目新しく、新鮮な印象を与える。

 次の(1)は冒頭の文であり、(2)は後日譚に入る手前の本編最後の文である。

(1)腹上死であった、と記載されている。腹英三十四年、現代の暦で見れば一六〇七年のことである。歴史書というものは当時の人間が書くものではなく、後代の人間が書くものである。更に言えば次の王朝の史官が書くのが通例である。よって、この歴史書の筆者は王の腹上死を実際に目撃したわけではないし、直接に調査し得たわけでもない。

(2)この小説の題名は「後宮小説」ということになっている。後宮が消滅した以上は、この「後宮に関するつまらない話(後宮小説)」も、もはや、書くことがなくなった。

 この作品が筆者の視点から書かれてあることは前述したが、筆者は作品全体を通してこのような独特の文体で独特の雰囲気を作り出している。この作品によって酒見賢一という作家が世に出、選考委員の詩人矢川澄子氏をして「第一回目にこのようなハイレベルの作品を得たことは、その後の応募者たちにある緊張を呼びさまし、賞そのものの権威をいちじるしく高めてくれた」と評され、直木賞候補作にも挙げられたその事実は、このような構成・形式が、新しい興味・快感を伴って、なんの違和感もなく読者に受け入れられたことを実証するだろう。

 芭蕉の不易流行論によれば、それは時代が受け入れたことになる。矢川澄子氏はまた、文庫のあとがきで「各人の個性がそれぞれ異なるように、人間の固体の数だけ異なるファンタジーが当然あってよいはずなのに、なぜか我国ではファンタジーといえばともすれば妖精とか魔女とかいった外国種のキャラクターの出没する領分や、もしくは現実逃避のための便法などと誤解されて、安易な類型的作品があとを絶ちません」と述べている。その選考委員たちの心配を打破したのがこの作品なのである。一つの形として完成されたこの作品は、まさに時代が待ち望んだものだった。

 不易流行論については、夏目漱石も『文学評論』で、

たとえばポープ一派の詩ごときは当時あのくらい隆起を極めたに関せず、現今の英人はともに同音に人工的である、自然に遠ざかっているといわぬ者はない。すなわち現今の英人はポープ流の詩について多くの趣味を有しておらんということが分る。(中略・引用者)また十八世紀の末に『オシアン』〔Ossian〕が出た。これはマクファーソン〔Macpherson〕の胡魔化しものだというが、とにかくこれが出た時は非常な評判でゲーテ〔Goethe〕も愛読し、ナポレオン〔Napoleon〕も愛読した。しかるに現在の英人は『オシアン』を単に歴史上の一現象として見る以外になんらの興味をも有しておらん。興味を有しておらんのみならず、とうてい読み切れないなどと特筆する評家さえある。してみると『オシアン』は出版当時の人気には合い、現今の人気にはとうてい合わぬのである。

と述べている。

(H)真実を表現するための虚構

 想像力によって加工・保持しやすいために文学は史実的には偽であっても、その状況を的確に表現し、また、それを後世にまで残すほどの影響力を持つという。つまり、真実を表現するための虚構である。『後宮小説』の、自由奔放な想像力を駆使し、詳細な舞台設定など徹底した化かしぶりは、史実よりもさらに大きな影響力を読者に及ぼした。この作品は、芥川龍之介『戯作三昧』にも見られる、内因的動機づけ、つまり生理的動機づけが満たされた状態で発現する、それ自体が興味の目標・対象にたる作品なのである。

おわりに

 以上、『後宮小説』を分析していった。本稿では、諸先学の文学理論が当該作品にどれだけ応用・該当できるかという簡単な分析のみにとどまったが、現在のファンタジーノベル部門の登竜門的存在となった日本ファンタジーノベル大賞のレベルを著しく引き上げた当該作品を分析することによって、ファンタジーの手法を確認することができたかと思う。

 ファンタジーとは空想世界であり、そしてそれは現実世界の反映でもある。そのファンタジー世界を読み解く手助けになればと思う次第である。



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