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Last Updated 2002/3/10

発表024

皇極紀3年7月条・常世神信仰における覚書

毛利 美穂

本稿において引用する本文は日本古典文学大系『日本書紀』上・下(岩波書店)による。


はじめに

 『日本書紀』(以下、書紀)の皇極紀3年7月条に、東国において大生部多をリーダーとする常世神信仰が、秦河勝によって弾圧されるという記事がある。天皇および天皇を中心とする中央集権国家の権威確立をえがく書紀には、権威確立を示すための神事や仏教などの宗教的記事が少なくないが、そこに登場する人物たち、すなわちその活動に関与するのはいわゆる支配者層であり、そこには民衆の反応は、「時人いわく」などと第三者的に語られることはあっても、直接描かれることはほとんどない。さらに言えば、「時人歌」に関しては土橋寛氏が『古代歌謡の世界』において中国史書の表現を借りた第三者的立場の時事批評の歌が多いことを指摘されているように、「時人歌」の視点は書紀編者の視点によるものと解釈するのが穏当と思われ、単純に民衆の反応とは言えない部分もある。

 そのような支配層側を中心とする書紀の中で、皇極紀の記事は、支配層を中心としない民間信仰、しかも弾圧の対象となった民間信仰の記事として注目され、これまでしばしば取り上げられて多くの諸説が展開されてきた。

 本稿では、皇極紀の当該記事に関する諸先学をまとめてみたい。

1.当該記事の確認

 はじめに当該記事を確認しておきたい。

東國の不盡河の邊の人(1)大生部多、蟲祭ることを村里の人に勸めて曰はく、「此は(3)常世の神なり。此の神を祭る者は、(4)富と壽とを致す」といふ。(1)巫覡等、遂に詐きて、神語に託せて曰はく、「常世の神を祭らば、(4)貧しき人は富を致し、老いたる人は還りて少ゆ」といふ。是に由りて、加勸めて、(5)民の家の財寶を捨てしめ、酒を陳ね、菜・六畜を路の側に陳ねて、呼はしめて曰はく、「(3)新しき富入來れり」といふ。(2)都鄙の人、(5)常世の蟲を取りて、清座に置きて、歌ひ舞ひて、福を求めて珍財を棄捨つ、(7)都て益す所無くして、損り費ゆること極て、甚し。是に、(8)葛野の秦造河勝、民の惑はさるるを惡みて、大生部多を打つ。其の巫覡等、恐りて勸め祭ることを休む。時の人、便ち歌を作りて曰はく、
  太秦は 神とも神と 聞え來る 常世の神を 打ち懲ますも
(9)此の蟲は、常に橘の樹に生る。或いは曼椒に生る。其の長さ四寸餘、其の大きさ頭指許。其の色緑にして有黒點り。其の■(かたち)全ら養蠶に似れり
(傍線引用者 以下同様)

 内容については、およそ10のポイントがあるだろう。

(1)リーダーは大生部多と巫覡等
 「大生部多、蟲祭ることを村里の人に勸めて曰はく」「巫覡等、遂に詐きて、神語に託せて曰はく」とあるように、リーダーは大生部多と巫覡等であり、国家側というより民衆に密着した人物が中心であること。

(2)信仰者は「都鄙の人」
 その信仰者については「都鄙の人」とあり、この常世神信仰が、地域密着型ではなく、かなり広範囲にわたって信じられ支持されてきたことが窺える。

(3)常世神=外来神
 この神は「常世の神」といい、「常世」という名称を冠していること、「橘」(これは垂仁紀90年2月条に「天皇、田道間守に命せて、常世國に遣して、非時の香菓を求めしむ。今橘と謂ふは是なり」とあり、田道間守が求めた「非時の香菓」のことが想起される)に生じ、またその祭祀効果として「富入來れり」(しかも、「福を求めて珍財を棄捨つ」とあるように、それまでの宝を捨てることによって新しい富を手に入れる、すなわち富は外からもたらされる)とあること、そして、「常世の蟲を取りて、清座に置きて」と外から連れてくるという認識からも、外来神的存在としてとらえられている。

(4)祈願内容
 祈願内容については、「此の神を祭る者は、富と壽とを致す」「貧しき人は富を致し、老いたる人は還りて少ゆ」とあるように、具体的には、富や長寿、若返りなど著しく個人的欲求に始終していることがいえる。

(5)祭祀方法
 「民の家の財寶を捨てしめ、酒を陳ね、菜・六畜を路の側に陳ねて」「常世の蟲を取りて、清座に置きて、歌ひ舞ひて、福を求めて珍財を棄捨つ」と、その祭祀の方法が独特なものであることが挙げられる。

(6)「蟲」
 この常世の神は、地の文ではあくまでも「蟲」、会話や歌謡のみ「神」と記されていることから窺えるように、書紀の立場としては、あくまでも正当な神としては認めず、記事の流れとしては、河勝に弾圧される邪教扱いとなっている。歌謡から見ていくと、「時人」の歌ということから、山上伊豆母氏は、 「これは常世の神を討った河勝をたたえるというのは不自然で、ワザウタは巫覡の神語礼讃する内容ではなく、実は自然神への弾圧を呪詛した歌なのである」とし【注01】、小学館全集本の頭注では「社会批判の内容としてみるべきだ」と指摘し、単に河勝の功績を褒め称えたのではなく、巫覡の背後にいる蘇我氏の勢力を河勝が抑制したのだととらえる見方がある。このような氏族間の勢力争いについては、先行研究の紹介の中で詳しく述べるが、ここでは、あくまでも地の文では「蟲」、会話や歌謡のみ「神」と記されている書紀における常世の神の評価を確認しておきたい。

(7)祭祀効果なし
 「都て益す所無くして、損り費ゆること極て、甚し」とあるように、その信仰はまったく効果がなく、社会問題化している。

(8)秦造河勝の登場
 (6)でも触れたが、秦造河勝が大生部多を打つ理由・意味が挙げられる。

(9)不思議な虫
 「其の色緑にして有黒點なり。其の■(かたち)全ら養蠶に似れり」と、蚕に似ている、不思議な虫として認識されていること。

(10)皇極紀における位置
 皇極紀全体の構成(流れ)から見た場合、当該記事が皇極紀3年という、大化改新直前の社会的に不安定な時のものであること。

 以上、10の点を押さえておきたい。

2.先行研究

 皇極紀における常世神信仰もしくは常世神伝承に関する先行研究を確認していきたいと思う。細かに分けたもの、大雑把に分けたものがあるが、だいたい以下の9つに分けられるだろう。

A.中央貴族対村落農民の、政治もしくは宗教上の対立の反映

 前川明久氏は「皇極朝の宗教運動が、大化改新前夜に行なわれ、その活動は古代村落の農民層が中央貴族層の政治に対抗してのことである」と述べている【注02】

B.民間道教に対する国家仏教の制圧

 下出積與氏は「これは中国の民間道教の信仰・行事の系譜をひくものと考えていいであろう。したがってこれは、道教のマジックによる祭祀を基定として、これにシャーマニスティックな要素や、日本の原始信仰の心理などが加味されて発生した現象と考えてよい」と説かれ【注03】、下出氏はその後も、『道教と日本人』【注04】、『神仙思想』【注05】、『日本古代の神祇と道教』【注06】、『道教』【注07】などにおいて同様の見解を示している。なお、岩波の大系本『日本書紀 下』の頭注には下出氏の説が載っている。

C.蘇我氏との関わり

 これはいわゆる、皇極紀が蘇我氏批判とその一族滅亡を描く大化改新直前の巻であることを考慮に入れた、中央における蘇我氏の政治に対する反抗者、つまり反蘇我的立場にあったのは大生部多か秦河勝かということが問題となる。これについて前川氏は、大生部多を反蘇我勢力として捉え「大生部多は、人心の動揺を背景に蘇我氏による政治への抵抗を示した人物と考えられる」と述べ【注08】、したがって秦河勝は蘇我氏に加担したという見解を示している。それに対して平野邦雄氏は「反宮廷、反蘇我の黒幕として秦氏を考えることは、皇極紀の巫覡の活動からしても無理のない把握のしかたである」とし、さらに、蘇我馬子・蝦夷の信仰する百済仏教に対抗して、秦河勝と聖徳太子の新羅仏教があったことをその理由としている【注09】。また安川芳樹氏は、巫覡の活動を通じて秦河勝を反蘇我派として捉えている【注10】。別の角度から大生部多を蘇我派とするのは土橋寛氏であり、氏は「駿河の国における常世の神騒ぎも、民間道教系の新興宗教と巫覡を利用した蘇我氏一派の謀略ではなかったかと考えられるのであり、現地でその指導的役割を演じたのが大生部多であろうと思うのである」と述べている【注11】

D.秦氏(渡来系氏族)の豪族的性格による民間信仰との融合

 (C)の蘇我氏にも見られた氏族研究に似たものとして、上田正昭氏は秦氏について指摘している。上田氏は秦氏に注目し、秦氏が仏教ばかりでなく神道とも深い関連を持っていた(上田氏は、渡来系の人々が在地の神などを祭祀する例を挙げて説明している)という視点から秦氏と神道とのつながりを指摘し、また、秦氏が政界で実力を伸ばしていくと同時に、各地へ、広範囲へ分布する秦氏の勢力を背景に、豪族的性格による民間信仰との融合が見出されるのではないか、この皇極紀の記事はそれをあらわすものではないかと述べている【注12】

E.信仰の基底にある思想

 これまで挙げてきた、どちらかといえば史学的見解から離れ、また道教の影響を強く押し出す下出氏の説に対して、信仰の基底にある思想とはいかなるものか、すなわち下出氏のとなえる道教からの神仙思想か、それともそれよりも古くから日本人の中に浸透していたと考えられるマレヒト信仰かということについて言及したのは、前田晴人氏である【注13】。前田氏はまた、従来の常世神信仰についても若干の整理を試みています。マレヒト信仰、すなわち常世からマレヒトを導き出す「常世の客人神」観については折口信夫の基礎的発想といえよう【注14】

F.折口「まれびと」論・常世

 「まれびと」論は折口の根幹をなす論理であり、その著書のいたるところで確認することができる。「髯籠の話」の中で、神とは「青空のそきへより降り来る」ものという認識が確認され【注15】、翌年の「異郷意識の進展」や「妣が国へ・常世へ」で明確に形となっていく【注16】。「まれびと」の意義については、「国文学の発生(第三稿)」に詳細な論述がみえる。

まれと言ふ語の遡れる限りの古い意義に於て、最少の度数の出現又は訪問を示すものであつた事は言はれる。ひとと言ふ語も、人間の意味に固定する前は、神及び継承者の義があつたらしい。其側から見れば、まれひとは来訪する神と言ふことになる。ひとに就て今一段推測し易い考へは、人にして神なるものを表すことがあつたとするのである。人の扮した神なるが故にひとと称したとするのである。 私は此章で、まれびとは古くは、神を斥す語であつて、とこよから時を定めて来り訪ふことがあると思はれて居たことを説かうとするのである。【注17】

  上田氏は「まれびと論の再検討」と題して、この折口の「まれびと」論を整理し、「共同体内部の信仰に基づく来訪神が〈まれびと〉的なものとして意識されてくるのは、むしろ外来の〈イマキの神〉とりふれあいによってではなかったか、と解釈している【注18】

G.巡行神・小さ神

 「まれびと」から発展した巡行神・小さ神の存在がさらに取り上げられるだろう。山上伊豆母氏は、「常世神から志多羅神へ ――外来神観と古代民衆信仰――」「原ヤマトタケル譚の民俗的考察 ――「常世」と火の信仰をめぐって――」において、折口民俗学の基礎的発想である「常世の客人神」観をさらに進め、その「まれびと」は、もとはおおむね本土から「常世」へ流離し、そが再び「帰化、帰り来」の原型が存在したと考え、この流離と巡行と回帰信仰の神人は、一面において「少童神」の姿を有していることが多いという興味深い見解を示している【注19】。巡行神の「少童型」を示す例として、山上氏は、ヒルコ、スクナヒコナ、ホノニニギノミコトのみならず、スサノヲが「八握鬚髯生ひたり。然れども天下を治さずして、常に啼き泣ち恚恨む」(神代紀上第5段一書第6)等という表現が、小児型の表象であるとし、また同様の例として垂仁天皇の皇子・ホムツワケやヤマトタケルの小児表現についても挙げている。そして、この神や人間たちは巡行神として身をやつして遊行し、やがて自らを受け入れる生活共同体のうちにおいて「福神」的神格として鎮魂されたのだとするのである【注20】

 下野敏見氏は、全国の「おとずれ神」の中から代表的なもの33例を取り上げ、その機能として、(A)危害を加えようとする、(B)祝福する、(C)物をもらうという3点を挙げている【注21】

 古橋信孝氏は、歌謡に見られる巡行神の姿を「巡行叙事」と称している【注22】。また、折口は「まれびと=神」という視点から文学の発生のありかたを説いているが、なぜ「来訪神」なのか、「神」とはなにかの問いかけが折口論には欠けているとして、

飢えに悩まされる村落共同体はなぜ豊饒を求めて他の土地へ成員が分散して行き解体しないのか。なぜ現在そこに村落をなしているのか。その根拠は過去に幻想された。かつて住み良い豊かな土地を求めて流浪した果てに、ここに村落を営んだ。だからここは選ばれた土地であり、人びとはひの村立てをした始祖の子孫であり、ここに住むべきだ、と。その始祖がまた神である。そのように、村落共同体は神を幻想することによって維持されたのである。【注23】

とし、「この土地を見出した神の言葉」である、一人称・現在形の語りを「神謡」とし、さらにその表現構造を分析し、古代日本の「村立て」が「国見」として表現されていること、そして「巡行叙事」という表現を持つことを説明している【注24】。 多田元氏は、古橋氏の論をふまえ、「来訪」と「巡行」には違いがあるはずであるとし、ものごとのはじまり、始源として「巡行」をとらえている【注25】

 一方、そうしてめぐりくる「異形」もしくは「異人」、例えばヤマタノオロチ・スサノヲ・スクナヒコナ・サルタヒコなどが負う機能として、山田直巳氏は、「正統=中心」に対する「異端=周縁」と位置付けている【注26】。そしてそのような「異形」もしくは「異人」性に特殊な能力・機能が付着していると説いている。

H.常世・異郷

 折口のいう「まれびと」、山上氏・古橋氏のいう「巡行神」、山田氏のいう「異形」の者たちが属する世界として認識されている、「常世・異郷」についてはどのような論が展開されているのだろうか。

 皇極紀3年7月条の記事を除いて書紀には4ヵ所「トコヨノクニ」が登場する。「常世」については神代紀上第7段本文、いわゆるアマテラスの天の岩戸隠れの段に初めて登場する。

是の時に、天照大神、驚動きたまひて、梭を以て身を傷ましむ。此に由りて、發慍りまして、乃ち天石窟に入りまして、磐戸を閉して幽り居しぬ。故、六合の内常闇にして、晝夜の相代も知らず。時に、八十萬神、天安河邊に會ひて、其の祷るべき方を計ふ。故、思兼神、深く謀り遠く慮りて、遂に常世の長鳴鳥を聚めて、互に長鳴せしむ。(神代紀上第七段本文)

 アマテラスが岩戸にこもってしまった後、「六合の内常闇にして、晝夜の相代も知らず」と、辺りは真っ暗になってしまう。そこで、思兼神は考え、常世から長鳴鳥を連れてきて、一斉に鳴かせるという方法をとることになる。

 この神代紀の記事を初見として、以後、書紀には継続的に「常世」「常世国」という表記が見られる。このことは、「常世」「常世国」というものが、突然、大陸の影響を受けてあらわれた言葉や概念などではなく、人々の間に古くから根ざしていたものと考えられ、それだけに、本居宣長の『古事記伝』をはじめ、宣長説を発展させ、民俗学見地から見解を展開された折口信夫の『古代研究 国文学編』、また比較神話学から言及された松村武雄の『日本神話の研究』、松本信広氏の『日本の神話』など、多くの先学によって注目されて優れた究明が加えられ、現在にいたっても研究対象として考察が重ねられている。

 ここでは、諸先学の紹介というよりも、先学をふまえながら、実際に書紀にある4つの常世国記事を挙げて簡単に確認していきたい。

・神代上第8段(一書第6)
其の後に、少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適しぬ。亦曰はく、淡嶋に至りて、粟莖に縁りしかば、彈かれ渡りまして常世郷に至りましきといふ。

 このことによって少彦名命は、オオナムチと作った国土から永久に離れることになる。海からやってきた(常世国からやってきたという説もあるが)少彦名命は、国作りという大きな富をもたらし、そしてその常世郷とは、容易に行き来できる場所ではないが、粟莖にのぼってはじかれて渡ることのできるような、1つの空間を占めるもの、具象化された存在として理解されており、現実の世として認識されていたことがわかる。

 このことは、神武紀でも窺える。

・神武紀戊午年6月乙未朔丁巳
三毛入野命、亦恨みて曰はく、「我が母及び姨は、並に是海神なり。何爲ぞ波瀾を起てて、潅溺すや」とのたまひて、則ち浪の秀を蹈みて、常世郷に往でましぬ。

 三毛入野命もまた、常世郷に行ってしまったまま帰ってこないが、海の向こう、波の向こう側に存在する場所として認識されており、それは垂仁紀・雄略紀にはそれが顕著に記されている。

 さらに、垂仁紀では、

・垂仁90年2月
天皇、田道間守に命せて、常世國に遣して、非時の香菓を求めしむ。今橘と謂ふは是なり。

とあるように、「非時の香菓」という珍宝をもたらす常世国とは、時間を超越した場所として描かれており、また、雄略紀では、

・雄略22年7月
丹波國の餘社郡の管川の人瑞江浦嶋子、舟に乘りて釣す。遂に大龜を得たり。便に女に化爲る。是に、浦嶋子、感りて婦にす。相逐ひて海に入る。蓬莱山に到りて、仙衆を歴り覩る。語は、別卷に在り。

と、さらに「蓬莱山」と永遠不変なイメージが道教の神仙思想と結びつき、不老不死、永遠長寿のイメージと結びついたことが窺える。

 このように、書紀における4つの記事を確認するだけでも窺えるように、常世・常世国のイメージは人々の富と長寿・不老不死という個人的欲求を充たす理想郷として認識されていったのである。

 はからずも、書紀の巻順の説明になったが、「常世国」「異郷」のイメージが人々の興味・欲求に従って変化することに関しては、下出氏、安永寿延氏なども指摘している。

I.社会不安と民間信仰

 今回取り上げたのは皇極紀における民間信仰であるが、最後に、なぜ、このような民間信仰があらわれるのか、という点については、主に、社会不安・災害などの影響により人々が他に心のよりどころを求めることがその原因として挙げられよう。

 川崎庸之氏は常世神伝承を取り上げ、

当時の社会を包んでいたいいしれぬ不安と動揺とは、このような話の中にもけざやかに読み取ることができる。【注27】

と述べており、堀一郎氏も同様の視点が窺える。また、佐野賢治氏は、突然襲ってくる天変地異について、「ケガレ」すなわち日常性が崩壊した時に、「ケ」という根源的なエネルギーが欠けた状態をあてはめ、その状態を回復させることが「民間信仰」の役割であるとの見解を示している。

おわりに

 以上、皇極紀の当該記事に対する、およそ9通りの説を整理してみた。これらの先行研究をもとに、今後、当該記事の検討を進めていきたいと思う。


【資料】常世神信仰・伝承に関する関連先行研究(敬称略)

A.中央貴族対村落農民の、政治もしくは宗教上の対立の反映
  • 前川明久「七世紀における古代村落と宗教運動」(『日本上古史研究』3巻11・12号、1959)
B.民間道教に対する国家仏教の制圧
  • 下出積與「皇極朝における農民層と宗教運動」(「史学雑誌」67-9、1958.9)
  •   同  『道教と日本人』(講談社、1965)
  •   同  『神仙思想』(吉川弘文館、1968)
  •   同  「第三章 常世神信仰」(『日本古代の神祇と道教』吉川弘文館、1972)
  •   同  『道教』(評論社、1980)
C.蘇我氏との関わり
  • 平野邦雄「秦氏の研究(一・二)――その文明的特徴をめぐって――」(「史学雑誌」70-3・4、1961.3・4)
  • 土橋寛『古代歌謡全注釈日本書紀編』(角川書店、1976)
  • 安川芳樹「皇極紀における常世神伝承の意義」(「國學院大・日本文学論究」51、1992.3)
D.秦氏(渡来系氏族)の豪族的性格による民間信仰との融合
  • 上田正昭『上田正昭著作集2 古代国家と東アジア』(角川書店、1998)
  • 上田正昭『上田正昭著作集3 古代国家と宗教』(角川書店、1998)
E.信仰の基底にある思想
  • 前田晴人「古代東国の常世神信仰」(「日本歴史」547、1993.12)
F.折口「まれびと」論・常世
  • 折口信夫「妣が国へ・常世へ」(「國學院雑誌」26-5、1920.5→『折口信夫全集2』所収)
  •   同  「古代生活の研究」(「改造」7-4、1925.4→『折口信夫全集2』所収)
  •   同  「若水の話」(1927.2草稿→『折口信夫全集2』所収)
  •   同  「国文学の発生(第三稿)」(「民族」4-2、1929.1→『折口信夫全集1』所収)
  •   同  「髯籠の話」(「郷土研究」3-2・3、4-9、1929.4・5、1930.12→『折口信夫全集2』所収)
  •   同  「異郷意識の進展」(「アララギ」9-11、1930.11→『折口信夫全集20』所収)
  • 上田正昭『上田正昭著作集8 古代学の展開』(角川書店、1999)
G.巡行神・小さ神
  • 折口信夫「ひめなすびとひなあそびと」(「水甕」20-10、1933.10→『折口信夫全集17』所収)
  • 山上伊豆母「常世神から志多羅神へ ―外来神観と古代民衆信仰―」(「國學院雑誌」68-5、1967.5)
  • 「遍歴する英雄神」(小林行雄他編『日本文学の歴史1』角川書店、1967)
  • 柳田国男「大白神考」(『定本柳田国男集12』筑摩書房、1969)
  • 山上伊豆母「原ヤマトタケル譚の民俗的考察 ――「常世」と火の信仰をめぐって――」(三品彰英編『日本書紀研究4』塙書房、1970)
  • 下野敏見「おとずれ神」(大島建彦編『講座日本の民俗6 年中行事』有精堂出版、1978)
  • 古橋信孝「ことばの呪術 ――アラをめぐって、常世波の寄せる荒磯――」(「文学」54-5、1986.5)
  • 古橋信孝『古代和歌の発生』(東京大学出版会、1988)
  • 神田より子「女とカミとオシラさま」(網野善彦他編『大系日本歴史と芸能11 形代・傀儡・人形』平凡社、1991)
  • 山田直巳「縁辺・異形の譜」(尾畑喜一郎編『記紀萬葉の新研究』桜楓社、1992)
  •   同  『異形の古代文学 ――記紀・風土記表現論』(新典社、1993)
  • 神谷吉行「少名毘古那神と王権伝承 ――常世国からの顕現をめぐって――」(「相模国文」20、1993.3)
  • 古橋信孝「神謡――歌の発生」「神謡の表現構造」(『万葉集の成立』講談社、1993)
  • 多田元「巡行する神」(古橋信孝他編『古代文学講座5 旅と異郷』勉誠社、1994)
  • 中村行雄「神々の霊異とは何か」(山折哲雄編『日本の神1 神の始源』平凡社、1995)
  • 玉城政美「おもろと儀礼歌謡」(『岩波講座日本文学史15 琉球文学・沖縄の文学』岩波書店、1996)
H.常世・異郷
  • 安永寿延「常世国 ――日本的ユートピアの原像――」(「文学」36-12、1968.12)
  • 大内建彦「異郷訪問神話 ――海幸山幸神話をめぐって――」(古橋信孝他編『古代文学講座5 旅と異郷』勉誠社、1994)
  • 吉田修作「死へ向かう旅」(古橋信孝他編『古代文学講座5 旅と異郷』勉誠社、1994)
  • 飯田勇「異郷との接触法 ――古代王権と〈宮〉――」(古橋信孝他編『古代文学講座5 旅と異郷』勉誠社、1994)
  • 和田萃「神仙思想と常世信仰の重層 ――丹波・但馬を中心に――」(『古代の日本と渡来の文化』学生社、1997)
I.社会不安と民間信仰
  • 川崎庸之『天武天皇』(岩波書店・新書98、1952)
  • 堀一郎「社会不安と民間信仰」(『民間信仰と民衆信仰』宮田登他編、吉川弘文館、1994)
  • 佐野賢治「災害と民間信仰」(『日本の神2 神の変容』山折哲雄編、平凡社、1995)

【注01】山上伊豆母「童謡の成立 ――古代巫覡の動向」(『芸能史研究』9、1965)

【注02】前川明久「七世紀における古代村落と宗教運動」(『日本上古史研究』3巻11・12号、1959)

【注03】下出積與「皇極朝における農民層と宗教運動」(「史学雑誌」67-9、1958.9)

【注04】下出積與『道教と日本人』(講談社、1965)

【注05】下出積與『神仙思想』(吉川弘文館、1968)

【注06】下出積與「第三章 常世神信仰」(『日本古代の神祇と道教』吉川弘文館、1972)

【注07】下出積與『道教』(評論社、1980)

【注08】【注02】。

【注09】平野邦雄「秦氏の研究(一・二)――その文明的特徴をめぐって――」(「史学雑誌」70-3・4、1961.3・4)

【注10】安川芳樹「皇極紀における常世神伝承の意義」(「國學院大・日本文学論究」51、1992.3)

【注11】土橋寛『古代歌謡全注釈日本書紀編』(角川書店、1976)

【注12】上田正昭『上田正昭著作集2 古代国家と東アジア』(角川書店、1998)、『上田正昭著作集3 古代国家と宗教』(角川書店、1998)。

【注13】前田晴人「古代東国の常世神信仰」(「日本歴史」547、1993.12)

【注14】折口信夫「国文学の発生(第三稿)」(「民族」4-2、1929.1→『折口信夫全集1』所収)

【注15】折口信夫「髯籠の話」(「郷土研究」3-2・3、4-9、1929.4・5、1930.12→『折口信夫全集2』所収)

【注16】折口信夫「異郷意識の進展」(「アララギ」9-11、1930.11→『折口信夫全集20』所収)、「妣が国へ・常世へ」(「國學院雑誌」26-5、1920.5→『折口信夫全集2』所収)

【注17】【注14】。

【注18】上田正昭『上田正昭著作集8 古代学の展開』(角川書店、1999)

【注19】山上伊豆母「常世神から志多羅神へ ――外来神観と古代民衆信仰――」(「國學院雑誌」68-5、1967.5)、「原ヤマトタケル譚の民俗的考察 ――「常世」と火の信仰をめぐって――」(三品彰英編『日本書紀研究4』塙書房、1970)

【注20】【注19】「原ヤマトタケル譚の民俗的考察 ――「常世」と火の信仰をめぐって――」より。

【注21】下野敏見「おとずれ神」(大島建彦編『講座日本の民俗6 年中行事』有精堂出版、1978)

【注22】古橋信孝『古代和歌の発生』(東京大学出版会、1988)

【注23】古橋信孝「神謡――歌の発生」「神謡の表現構造」(『万葉集の成立』講談社、1993)

【注24】【注23】。

【注25】多田元「巡行する神」(古橋信孝他編『古代文学講座5 旅と異郷』勉誠社、1994)

【注26】山田直巳「縁辺・異形の譜」(尾畑喜一郎編『記紀萬葉の新研究』桜楓社、1992)、『異形の古代文学 ――記紀・風土記表現論』(新典社、1993)。

【注27】川崎庸之『天武天皇』(岩波書店・新書98、1952)



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