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Last Updated 2001/7/5

発表021

マルキ・ド・サド『恋の罪』:
「フロルヴィルとクールヴァル、または宿命」について

毛利 美穂


 ドナシアン・アルフォンス・フランソワ、マルキ・ド・サドの短編集『恋の罪』は、フランスの共和歴8年(1800)にマッセ書店から、作者が初めてサドの名を冠して刊行した適法の作品である。初稿は1787年から88年にかけてバスティーユ獄で書かれ、1800年版では、違反の作品に見られる露骨な性的描写と、悪徳の勝利で終わる結末が削除され、また、思想小説に特有の、作品の流れにやや唐突かつ不自然に挿入された反社会的、反宗教的な長台詞の削除ないし差し換えがなされている。今回扱った1996年に岩波書店から刊行された『短編集 恋の罪』には11編中4編が収められている。

 文庫本の冒頭に訳出された「フロルヴィルとクールヴァル」の初稿は、1787年、訳者植田祐次氏によると、作者がこの作品の最後の部分を執筆したのは1787年3月1日夜から同3日にかけてであると推定される。作品の内容は、以下の通りである。

 55歳のクールヴァル氏にとって、それまでに味わった不快なことといえば、ずっと以前に彼を棄てて淫蕩に血道を上げた最初の妻にまつわる出来事であった。彼は最初の結婚の不幸を忘れさせてくれる婦人と再婚しようと思い立ち、友人から再婚相手として36歳のフロルヴィル嬢を紹介される。彼にとって彼女は申し分ない相手だったが、彼女は自分の過去を聞いてから結論を出してほしいと身の上話を始める。自分が捨て子であること、16歳の頃の恋愛と出産、34歳で年下の青年に熱愛され、それを拒み誤って殺人を犯したこと、彼女の供述によって一人の婦人が死刑になったことを。だが、彼はフロルヴィルを受け入れ、二人は結婚、そして彼女は妊娠する。ある日、彼の不肖の息子セヌヴァルが舞い戻り、家族にふりかかった不幸を語る。ここで、クールヴァル氏の亡くなったはずの娘が、今は妻となっているフロルヴィルであり、実の兄セヌヴァルは16歳の時の彼女の恋人であり、その時に生んだ兄との子供が、彼女が34歳の時に誤って殺してしまった青年サン=タンジュであり、彼女の供述によって死刑場に送られた婦人が実の母親であったことが明らかにされ、彼女はセヌヴァルから奪ったピストルで自殺する。

 一読して、エディプス・コンプレックスでも知られる、「父を殺し、母と結婚する」ギリシア神話のオイディプス王の物語を彷彿とさせる。作者自身、「『恋の罪』の作者、三文時評家ヴィルテルクに答える」で、

「フロルヴィルとクールヴァル」の宿命は、果たして罪を勝ち誇らせているだろうか。この小説でそれと知らずに犯される罪のすべては、宿命の結果でしかない。かつてギリシア人たちは彼らの神々の支配力を宿命によって補強していた。私たちは、オイディプス王とその家族の不幸と同じ出来事を毎日のように見ているではないか。

と、オイディプス王の物語との関係を語っている。もちろん小説では、捨て子の状況設定、悪人の不在、それと知らずに犯される近親相姦と親殺し、悲劇の予告と謎解きなどによって、オイディプス王の物語と類縁を保ちながらも、宿命の陥穽に落ち込む美徳の不幸を極度に増幅させている。このように、作者はギリシア悲劇や宮廷風恋愛文学から古典悲劇や18世紀の小説に至るまでの古今の文学を故意に作中に取り込み、それを盾としながら、自らのテーマ「悪徳に迫害される美徳の不幸」を巧みに練り上げて罪深い恋を演出してみせているのである。同一のテーマを扱うことから、『恋の罪』を大場俊助氏のプロットの基本形式に当てはめると、連鎖式の内容的統一に該当するが、ここでは「フロルヴィルとクールヴァル、または宿命」だけを見ていくことにする。

 この作品において気づいた要素は次の通りである。

  1. 結果→原因
  2. 演劇的手法
  3. 視点の変化

 順を追って見ていくことにする。

1.結果→原因

 1800年版で多少削除ないし差し換えがなされたとはいえ、この作品はやはり思想小説である。作品には、二人の特徴的な夫人が登場する。フロルヴィルの養父サン=プラの妹で享楽主義者ヴェルカン夫人と、サン=プラの親戚筋に当る信心家レランス夫人である。

ヴェルカン夫人は今際のきわに、存分に悪事を働けなかったことを残念がっておられましたが、レランス夫人はし残した善行をしきりに悔いながら、息を引き取ろうとなさいました。お一人は花々に埋もれ、快楽を味わえなくなることだけを嘆いておられましたが、もうお一人は美徳に捧げなかった時間を思い出してお嘆きになりながら、改悛の十字架にかけられて死のうとなさいました。

 作者はここで、無神論者の死と信仰を持つ者の死とを対比させることによって、無神論者の絶望と宗教の慰めを強調する伝統的な論法に答えている。この他にもこうしたコントラストを利用して、二人の夫人の信条と素行を描いている。この思想小説のどのような点が、推理小説等に見られる結果→原因の解剖的プロットに分類させるのだろうか。

 この作品は、冒頭から悲劇もしくは美徳の不幸が予告され、事実、冒頭に設定された状況が周到な伏線となって必然化する過程をたどり、一気に悲劇と不幸を実現している。美徳は悪徳を相手に戦っても所詮勝ち目はない。美徳は、自分に思いつかない悪事を他人が思いつくとは夢にも考えないからである。小説の三人称の話者も一人称の語り手も、そのことを作中で暗示してみせる。

 例を挙げれば、青年サン=タンジュとの出会いで感じた予感、

虫の知らせとでも言うのでしょうか、……いえ、なんなりといかようにも呼んでくださって結構ですが、ムッシュー、原因を考えても見当もつかない全身の震えが私を襲いました。

という部分や、クールヴァルとの結婚での作者の説明である、

優しさ、汚れを知らない喜び、たがいに示し合う尊敬と愛情の確約がその結婚の挙式にみなぎった。……だが、復讐の女神フリアイは運命の婚姻の松明をひそかに消そうとしていたのである。

などにも不幸の予告がなされている。最後に、セヌヴァルの登場に対しては、

ある晩、心優しい愛すべき妻は、夫のそばで信じられないほど陰気なイギリス小説を読みふけっていた。それは、その頃たいへん評判になっていた小説だった。
「本当にこれこそ」と、彼女は本を放り出しながら言った。「私にそっくりな薄幸の婦人だわ。」

と、本人も知らないうちに近親相姦、息子殺し、母親殺しを犯していたフロルヴィルが、まだそれとは知らずに「信じられないほど陰気なイギリス小説」を読んでいたという部分は、作者が設定した悲劇のクライマックスへの導入に他ならない。そうでなければ、妊娠し、幸せの中にいるはずの彼女がわざわざ陰気な小説を読むのは不自然である。

 このように、オイディプス王の伝説で重要な意味を持つ神託がこの作品では予知夢となるように、作者は悲劇や不幸が実現する段階ごとにあらかじめ不吉な予感や虫の知らせや夢によって、いまわしい出来事の到来を読者に漠然と悟らせている。

  1. とりわけある夜のことでした、片時も忘れたことのないあのつれない恋人のセヌヴァル、と言いますのも、私がまたしてもナンシーの町へ引きずられるようにして行くのは彼のせいだったからです、……そのセヌヴァルが二体の遺骸を同時に私に見せるではありませんか。それは、サン=タンジュと私の知らない婦人の遺骸でした。彼はそのどちらにも涙を注ぎながら、そこから間近なところにある棺を私に指し示していました。棘に覆われたその棺は、私のために開かれているように思われました。私はひどく興奮して目を覚ましました。そのとき錯綜した無数の感情が心にわき起こり、内奥の声が私にこう語りかけるような気がしたのです。「そうだ、お前が生きているかぎり、いけにえとなった不幸な女は、日毎にますます痛切の度合いを増す血の涙をお前に流させずにはおかないだろう。お前の良心の痛みは弱まるどころか、たえず鋭くかき立てられるだろう。」
  2. 「お嬢さん、わたしがおぞましい行為にふけっていた頃、あなたが夢に現れました。あなたはわたしの息子と一緒でした。と申しますのも、わたしは子供を持つ身で、しかもごらんのとおりあさましい母親であるからです。……あなたのお顔、……体つき、……ドレスまでもが今、目にしているままでした。……わたしの目の前には処刑台がありました……」
    「夢ですって!」と、私は叫びました。……「奥さま、夢ですって!」
    たちまち自分の見た夢が脳裡によみがえり、その婦人の顔立ちが私に強い印象を与えました。私には、婦人が棘に覆われた棺のそばでセヌヴァルとともに夢に現われた女の人だと分かりました。

 まずA夢を見ることによって伏線を張り、それが後になってB現実になるという具合である。この作品は、こうした謎解きと発見という推理小説仕立ての語りになっている。

 もちろん、結果→原因の形式が推理小説等に多いとはいえ、他の分野にこの形式が全く見られないわけではないが、この作品が、プロット形式でいえば、結果→原因という因果的系列に属すのは明らかである。

2.演劇的手法

 この作品は、時に戯曲と錯覚させかねない対話の連続によって補強される。これは他の作品にも見られ、その極端な例としては、ほとんど脚本といえる『閨房哲学』が挙げられる。その冒頭部分は次の通りである。

 第一の対話 サン・タンジュ夫人、ミルヴェル騎士

サン・タンジュ夫人
 こんにちは、あたしの弟。ところで、ドンマンセさんはどうなさったの。
ミルヴェル騎士
 四時きっかりに来るでしょう。晩飯は七時だから、もちろん、それまでおしゃべりする時間はたっぷりあるよ。

 サドがこのような手法を用いていたことをここでは確認しておきたい。では、この作品に見られる演劇的手法を見ていこう。フロルヴィルとクールヴァル氏が結婚した後に、氏の息子セヌヴァルが舞い戻ってきた場面である。

 「ああ、お父さん!」と、その見知らぬ男はクールヴァル氏の足もとにひざまずきながら叫んだ。「二十二年前あなたと別れたろくでなしの息子がお分かりでしょうか。あれいらいたえず不運に見舞われて、犯したひどい過失を十分すぎるほど罰されたあなたの息子です。」
 「なに、あなたがわたしの息子ですと!……なんということだ!……恩知らずめが、どんなわけがあって、……なぜお前はわたしのことなど思い出したのだ。」
 「この心のせいです、……罪を犯してはいましたが、いつもあなたを愛してきたこの心のせいなのです。……お父さん、ぼくの話を聞いてください。……どうかお聞き願います。ぼくの不幸よりもっと不幸な出来事を、どうしてもお父さんのお耳に入れなければならないのです。お座りになってぼくの話をお聞きください。そして、奥さま」と、息子のクールヴァルは父親の妻に向かって話をつづけた。「はじめてお目にかかりながら、どうしても父にもう隠してはおけない辛い家族の不幸を、あなたの前で明かさねばなりません。そんなご無礼をお許しください。」
 「どうぞお話になって、ムッシュー、お話になってください」と、クールヴァル夫人は口ごもりながら、そしてその青年に逆上したような視線を投げかけながら言った。「不幸についての話題は、私にとって別に耳新しいものではありませんわ。子供の頃から不幸を味わっているのですもの。」
 すると、旅の青年はクールヴァル夫人をじっと見つめ、われ知らず不安げな様子を示しながら答えた。
「奥さま、あなたが、……ご不幸だったですって。……ああ! まさか、あなたがぼくたちほどに不幸だなんて!」
 一同は腰を下ろす。……クールヴァル夫人の様子たるや、とても描きおおせるものではない。……彼女は、馬にまたがって来たその男に目をやると、……視線を落とし、……落ち着かない様子でほっとため息をつく。……クールヴァル夫人が涙を流すので、息子は彼女の気持ちを落ち着かせようとしながら、自分の話に注意を向けてくれるよう頼む。ようやく会話にも少しは筋が立つ。

 三人称の部分は、まさに戯曲におけるト書きを見ているようである。また、フロルヴィルやセヌヴァルは過去の出来事をあえて現在形で語っているが、その動詞の用法の頻繁な使用は、さらに戯曲におけるト書きに近づけている。そして、作品には中断符「……」がかなりの頻度で使用されている。会話文が台詞、その他の部分がト書きならば、この中断符は演劇における「間」の指示であるかのようである。

 しかし、なぜ、このような傾向が見られるのか。サドの文学的テーマが「迫害される美徳と勝ち誇る悪徳」であることは一般によく知られているところである。美徳が迫害される残酷なテーマ、宗教道徳の偽善性への挑戦、快楽と悪徳の称揚、ゴシック小説を先取りした「暗いジャンル」で執拗に描かれる陰惨な場面の他に、サドが好んで用いたのは「演劇的小説」の手法であった。当時の多くの貴族がそうであったように、彼は自分で意識せず、若い頃からいつしか文学活動を行なっていた。恋愛書簡詩、歌謡、四行詩、時事に想を得た詩の他にも、彼は自分の気晴らしに、それに観客であり読者でもある彼の近親者たちの気晴らしに、サロンの喜劇を書き、仲間内の社交劇を演じていた。この経験と、彼が職業作家へと転身した後に見られる演劇的手法とを結びつけるのは強引ではないであろう。

3.視点の変化

 通常、小説の視点は一貫されているが、この作品では三人称で語られる部分と、

ムッシュー、あなたのお心積もりを考えますと、もう思い違いなさったままにしておくわけにはまいりません。

といった書き出しで始まる一人称の部分がある。「フロルヴィル嬢の身の上話」と題された過去の告白部分である。この告白によって視点の変化がなされているわけだが、これは、他の作品にもよく見られる登場人物の細かな心理描写のための視点の変化などではない。その一種の挿話的な形――むろん挿話ではないのだが――は、特殊で、一般的な小説の視点の定義には当てはまらない。しかし、これとまったく同じような構成を持つ小説がある。チャールズ・ディケンズの『荒涼館』である。

 それは大きな世界ではない。われわれの住んでいるこの世界にも限りがあるけれども、それにくらべてさえ、ほんの一点にすぎない。そこには多くの美点があり、たくさんの善良で誠実な人たちがおり、それ相応の役目を持っている。しかしながら、悪いことには、宝石をつつむ綿とやわらかい毛糸にくるまれすぎているので、もっと大きな、いろいろな世界の突進してゆく音が聞こえず、これらの世界が太陽のまわりを廻転している有様をみることができない。つまり、無感覚におちいった世界で、空気の欠乏のため、時には成長を阻害される場合もあるのである。

 これは三人称の部分である。この部分の他に、『荒涼館』にはヒロインのエスタ・サマソンの視点による「エスタの物語」と題された部分がもうけられている。

 義母はとても、とてもりっぱな人でした! 毎週日曜日には教会へ三度ゆき、水曜と金曜には朝のお祈りに、講話があればそのたびに出かけて、一度もかかしたことがありませんでした。きれいな人で、もし笑ったらまるで天使のように見えたことでしょう。――でも決して笑顔を見せたことがありませんでした。いつもまじめで、それに厳格でした。自分がとてもりっぱな人でしたから、そのため、他人の至らなさに一生眉をひそめていたのです。私は子供と大人の相違というものを充分斟酌した上でも、義母とのちがいを強く感じました。

 一人称で描かれた「エスタの物語」と、この「フロルヴィル嬢の身の上話」の構成上の役割はよく似ている。両者とも一見挿話のようだが、本編の一部分として重要な位置にあり、挿話として切り離すことはできない。『荒涼館』では「エスタの物語」から始まり「エスタの物語」で終わる。この作品では「フロルヴィル嬢の身の上話」を間に挟み、三人称から一人称へ、そしてまた三人称へと変化していく。登場人物の細かな心理描写のために、三人称と一人称を混ぜることは現代の作家の作品にもよく見られる。だが、このように作品の中で両者の役割を、挿話式と見紛うほどきっちりと区別するのは珍しい。しかも、視点は変化しても挿話といった扱いではなく、本編の流れに上手く融合し、さらに言えば本編に対して重要な意味を持つという作品は、そう多くはないだろう。

 視点については、この作品は一般的な定義には該当しないことになる。

 ここでは、結果→原因、演劇的手法、視点の変化について考えたが、以上の点だけでも個性的なサドのプロット形式が窺える。しかも、ただ個性的であるだけではなく、そこには統一性があり、充分鑑賞に耐えうる文学として、読者を魅了してやまない。


参考資料

  • マルキ・ド・サド『短編集 恋の罪』(岩波書店、1996)


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