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Last Updated 2001/4/5

発表018

西洋文化とキリスト教:異端裁判から魔女裁判へ

毛利 美穂


はじめに

 キリスト教が、西洋文化にもたらした影響は大きい。キリスト教会は、ローマ帝国の知識をもってヨーロッパ中世社会に政治の仕方、法律の作り方、裁判の方法等をもたらして暗黒時代の克服に役立ち、そして「ゆりかごから墓場まで」という言葉に代表される登録や慈善事業、教育事業に取り組んで人々の生活を支えていた。その一方で、自分たちとは違った思想を受け入れないという「6」の異端審問や魔女裁判を起こしている。
 ここでは異端裁判から魔女裁判への経緯について考えていくことにする。

1.初期の魔女

 中世の魔女裁判で裁判官がもっとも重視したのは、悪魔と結託していることである。魔女裁判を異端審問として正当化させること、すなわち魔女を異端者たらしめることによって理由づけられた「悪魔との結託」によって、魔女は異端者の中でも極悪な異端者となり、キリスト教的な魂の堕落によって裁かれることになる。では「悪魔との結託」とは具体的にどのようなものか。裁判官は主に「色魔」との関係に重きを置いている。「色魔」とは、魔女と性的関係を結ぶ下級の悪魔であり、女性の魔女と関係する男色魔、男性の魔女と関係する女色魔の2種類がある。しかし、この「色魔」に関する迷信は古代アッシリア人やバビロニア人の間にみられ、ゴール人やケルト族にも伝わっている。また、呪術によって農作物を枯死させ、水を涸らし、果実を腐らせ、藁人形やロウ人形に針を刺して目指す相手を病気にし、死にいたらせ、あるいは自分の憎む人妻を不妊症に、その夫を性的不能者にするとか、空中を飛んで魔女集会に出席するというような、魔女裁判でたえず追及されることになる諸々の魔女行為に関する迷信も遠く古代のインドやエジプト、ギリシャやローマにも広まっていたという。すなわち中世に広まった魔女像は、昔からあった伝承などを再現し、新たに色付けしたにすぎないのである。

 では、魔女は昔から迫害されていたかといえば、そうではない。確かに、魔女に対するイメージは、迫害を正当化する道具であり、迫害に助力するものであった。そのイメージによっていつの時代でも魔女は人に憎まれ、恐れられ、時には支配者によって弾圧される場合もある。弾圧の例として最も古いものは、紀元前1200年のエジプトである。ローマでは64年頃、皇帝ネロによってペテロとパウロが死んでいる。これはローマの官憲の手によるキリスト教迫害の幕開けであり、2世紀においては、ギリシャ人とローマ人がローマ帝国内部の小さなキリスト教徒にこのイメージを押し付けている。彼らは、赤ん坊や幼児が儀式として屠殺される集会と、これらの犠牲者の遺体が儀式としてむさぼり食われる饗宴を催すとして非難された。また、親と子、兄と妹などの近親相姦を含むあらゆる形の性交が自由に行われる性愛のオルギーを催すと非難され、獣の形をした奇怪な神格を崇拝するとも非難されている。

 しかし、彼らが迫害されたのはけっして「悪魔との結託」が理由ではない。ローマがキリスト教に改宗された直後のコンスタンティーヌス帝(280〜337)は呪術を禁ずる厳しい法令を発布しているが、その2年後に「病気をなおすため、あるいは雹や雪から農作物を防護するために行う呪術を禁ずることは皇帝の望むところにあらず」と布告している。この例にも見られるように、魔女の迫害は、魔女そのものに対してではなく、魔女が行う反社会的な犯罪に対してのものであり、病気をなおしたり農作物を保護する善の行いはむしろ喜ばれ擁護されていたのである。

 ローマ・カトリック教会の態度も実に温厚なものであった。魔女に対するイメージはあらゆる地域に浸透しており、各地で開かれた教会会議でも魔女の行為について弾劾されることもあったが、その処置は寛容で問われる罪は刑法的な犯罪一般に対するものにすぎなかった。

 後に、「善を行ない益をもたらすといえども、魔女は悪魔と結託した者であるがゆえに生かしておいてはならぬ」として死刑が原則となった魔女裁判時代の魔女観と比べると、その本質はあまりにも異なるのである。

2.中世キリスト教会

A.宗教改革運動

 中世のヨーロッパは、カトリック教会によって暗黒時代を乗り越え、文化を建設し、その文化的功績は「早期ルネサンス」を実現させた。カトリック教会が全キリスト教国の聖俗両界の監督者・指導者となったのは必然的な結果である。西ヨーロッパ全土に対して占めていた教会の地位と役割を思えば、そこに君臨し、秩序を維持する教皇の責任は重大である。そのためには教皇の絶対権力と、厳しい位階制を中軸とする教権政治が必要であった。

 キリスト教における異端の歴史は教会の成立と共に古く、初期教会の教父や教会会議も、しばしば異端者対策について意見を表明し規定を定めている。しかし、中世前期の教会は異端および異端者に対して寛容で合理的であった。その態度がにわかに逆転するのは12世紀、教皇権が最高度に伸びた教皇インノケンティウス3世(在位1198〜1216)の時である。この教皇権力の強大さと、それを後ろ盾にした聖職者の独善的な優越によって信仰はその影を潜めた。堕落した聖職者や教会に批判と改革の運動が起こるのは極めて当然のことであり、12世紀の南フランスを中心に先駆的な宗教改革者――教会の目には「異端者」――が持ち上がり、ローマ教会は恐慌の中に投げ入れられたのである。

 12世紀の南フランスは、ヨーロッパの中で最も文化的な地域だった。そこにはヨーロッパのどの地方よりも多くの宗教が平和に共存し、自由な空気が流れていた。その中で革新家たちは立ち上がる。アルビ派である。他にも「リヨンの貧者」と呼ばれる改革的説教運動の一団や、聖書主義のヴァルドー派が登場する。ヴァルドー派とアルビ派は、互いに互いを異端視し、自分たちこそ正しいカトリック教徒だと考えていたが、ローマ教会に対する批判と改革の精神においては、両者は完全に一致していた。

 中世のキリスト教世界においては数多くのこのようなカトリック教会反対グループ、すなわち異端的諸セクトが、原始キリスト教徒が非難されたのと同じような行いをしていると非難された。それに加えて彼らは、十字架に唾を吐き、踏みつけるというような、また、何らかの多かれ少なかれ淫らなやり方で形に現わして行われる魔王崇拝というような涜神的な行為をしている、と非難された。しかし、そのように非難されたカトリック教会反対者たちは、一般的に想定されていたように主として異国的で非キリスト教的なものだったのではなく、逆に、原始キリスト教的な潔癖純真な倫理に支えられた誠実にキリスト教徒たらんとしたグループだったのである。

 たとえ道徳的に美しくても、ローマ教会にとっては異端である。インノケンティウスは異端者撲滅に積極的に乗り出し、一般に「アルビ十字軍」と呼ばれる異端討伐の軍隊を結成した。その際に、インノケンティウスは異端者の領地と財産をその討伐者の私有に供する旨を発表し、十字軍士の私的欲望に訴えるという政策も行なっている。これが大虐殺を招き、やがて成立する「異端審問制」の持つ残虐と貪欲と欺瞞的詭弁の礎となるのである。

B.異端審問

 アルビ十字軍は1229年に解散した。だが、アルビ派の蜂起が与えた深刻な衝撃は、異端者の摘発と弾圧の強化がますます急を要することをローマ教会に痛感させた。そして、これまで比較的寛容だった教会側の意識は一変し、アルビ十字軍の終戦時に教皇の位についたグレゴリウス9世は、異端撲滅の専門的な組織の編成を試み、異端審問の制度を作り上げたのである。

 その審問方法を要約すれば、一人の異端者を滅ぼすためには千人の無実を犠牲にすることをいとわず、被告に有利な弁護の機会を完全に奪い、被告に不利な証言のためにはあらゆる機会を与え、人知の限りをつくした拷問によって自白を強要あるいは捏造し、したがって容疑は最初から有罪判決に直結しており、一切の審問費用は自分の五体を焼いた薪代をも含めて財産没収で弁済させるというものであった。このため、異端者には財産家が好んで選ばれた。1356年、アラゴン王国の異端審問長官となり精力的な異端追及で名の知られたニコラス・エイメリコは、その『異端審問官指針』(1376)の中で次のように述べている。

このごろ、強情な異端者が少なくなり、再犯の異端者はさらに少なくなり、金持ちの異端者はほとんどいなくなった。そのため、異端審問による収入が少なくなったので、貴族たちはその経費を負担したがらない。審問所の経費を捻出するには、なにかほかの方法を講じなければならない。

 異端者の審問方法はそのまま魔女裁判にも適用されることになるが、このエイメリコの著書からは、異端者の没収財産をめぐる関係当局の異常な関心が窺える。「経費を捻出するなにかほかの方法」の一部は、やがて魔女裁判が引き受けることになる。

C.魔女の出現

 魔女裁判は異端審問から出発する。だが、果たして魔女は異端者なのであろうか。人間や家畜の伝染病、凶作や異常気象などの災害は人知に及ばぬ原因があるとされ、特に伝染病などは魔女の仕業にされがちであった。もちろん、呪術・妖術の信仰が発達を遂げた主な理由が医薬の不足にあったことは確実である。衛生学と予防法の領域が顕著な進歩を見せるのは17世紀末になってからのことであり、17世紀初めに妖術犯罪の存在に最初に疑いの声を上げたのがパリの医者たちであることは、それを物語っている。このように、魔女というのは、宗教的な異端の罪を犯したからではなく、呪術によって人を殺し、あるいは家畜を病気にしたというような刑事犯的な行為によって処罰されたのであり、したがってその裁判は異端審問ではなかったのである。さらに言えば、魔女を憎んだのは教会ではなく一般民衆であり、世俗の裁判官なのであって、教会側はむしろ魔女を庇う側に回ったくらいであった。ところが、異端者の運動が激化する11、2世紀ごろから、異端者の罪状の中に魔女的な行為、つまり「悪魔の助力を求めた」という魔女行為が挙げられ始め、教会側の法廷に魔女の姿がちらつき始めるのである。

 先に述べたエイメリコの著書には、次第に少なくなっていく異端者に対する不満に溢れている。このような思考に達すること自体、聖職者の堕落を物語っていよう。また、経済的な理由もある。すなわち異端審問官たちはその活動範囲を魔女にまで拡大したいと願っていた。しかし、魔女はまだ異端者とは認定されてはいず、教会は司教に任せるべきだとして異端審問官の干渉を抑制していた。だが、教皇の中でもっとも迷信的で貪欲で残忍だったヨハネス22世の教書によって魔女狩り解禁令は発布させられ、魔女は異端者として処分し、その財産は没収すべきことが命じられた。

 ヨハネスが魔女裁判を奨励し、魔女狩り強化令を連発したのは、それによってヨハネス個人の身を守る私的な事情が多分にあったからである。彼は教皇選挙をめぐる身辺の情勢から、自分を排斥しようとする者の陰謀を恐れ、常に神経をとがらせていた。そして教皇に即位後間もなく、自分の生命を狙う疑いのある者を司教に命じて捕らえさせ、魔女的行為を拷問によって自白させ、処刑した。

 こうした猜疑や不信は当時の社会的変革期の不安動揺の反映でもあった。ヨハネスの時代は、教皇の権力は国王の権力に抑えられ、教皇庁はローマから南フランスのアヴィニヨンに移されてフランス王の支配下にあり、教会の力は脅かされていたのである。カトリック教会のこの危機情況は克服されることなくますます混乱の度を加え、やがて宗教改革運動につながり、「宗教戦争」という名の、西ヨーロッパ全土を荒廃させる社会的大動乱に移ることになる。ヨハネスの解禁令から勢いを得た魔女狩りは、この社会的動乱とぴったり歩調を合わせて1600年のピークに向うのである。

 ところで、なぜ魔女は異端者として処罰されなければならなかったのか。いったい魔女行為とはどんなものか。魔女行為については、主に「1」で述べたような伝説や神話の中に伝えられてきたものである。魔女裁判が活発になると、悪魔学の学説が知識人たち、特に異端審問官の間から生まれ、その数は魔女裁判の盛衰に比例している。これらの悪魔学は印刷術によってヨーロッパ中に広がった。ハインリヒ・クレーマーとヤーコプ・シュプレンガー(著者はクレーマーだけであろう。だが、シュプレンガーはその知的・宗教的権威によってこの書物に道徳的・神学的裏付けを与える役割を果たした)による『魔女の槌』(1486)が空前のベストセラーになり、17世紀に至るまで魔女狩りの基本的な手引書となっている。ここにおいて、魔女の本質は「悪魔との結託」にあり、「悪魔との結託」によって異端者の中でも極悪な異端者として位置づけられたのであった。

 魔女裁判を異端審問として正当化することが、換言すれば魔女が異端者であることが、教会当局にとって必要かつ重要な課題となっていたのである。この課題を解決する役割を引き受け、それを最も見事に果たしたのが『魔女の槌』であった。

 以上のことから、魔女裁判というのは、宗教改革における異端者の弾圧と、不安な時代において冷静さを欠いた人間(ここでは特に異端審問官)の常軌を逸した嗜虐性がもたらした大殺戮と言えよう。もちろん、現在では魔女裁判による犠牲者は史実よりも少ないと言われているが、裁判の名を借りた殺戮が行われたのは事実であり、その裏側にある集団的強迫観念の恐ろしさと人格の脆さを示している。

 魔女裁判が確立されるまでの長い歴史がカトリック世界に属するために、魔女狩りの主役はカトリックでありプロテスタントは脇役にすぎなかったといえば、そうではない。新しい魔女概念を創作したのも、またそれを異端審問に適用して魔女裁判を開始したのも旧教徒であるカトリックであったことは事実だが、その概念をそっくりそのまま受け継ぎ、それに基づいて魔女裁判をいっそう盛大にしたのは新教徒のプロテスタントである。したがって、宗教改革の激しいところほど魔女は多く、犠牲者もあった。新旧両教徒が互いを異端者として処理しようとすれば、双方の側において魔女裁判が激化するのは当然の成り行きであろう。これもまた宗教の一面である。


参考資料

  • 石原謙「クリスト教」(下中弥三郎編『世界歴史事典 第三巻』、平凡社、1956)
  • 森島恒雄『魔女狩り』(岩波書店、1970)
  • クルト・バッシュビッツ『魔女と魔女狩り――集団妄想の歴史』(法政大学出版局、1970)
  • ノーマン・コーン『魔女狩りの社会史』(岩波書店、1983)
  • 西村貞二『ルネサンスと宗教改革』(講談社、1993)
  • スティーブン・F・ブラウン『キリスト教』(青土社、1994)
  • ジャン-ミシェル・サルマン『魔女狩り』(創元社、1991)

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