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身分標識としての衣服
毛利 美穂 はじめに はじめに カーライル(Thomas Carlyle,1795-1881)の著した『衣服哲学』(Sartor Resartus)は、1833〜34年にイギリスのフレイザー誌に連載され、その後1836年にアメリカ、1838年にイギリスで出版された。原題はラテン語で、「仕立て直された仕立て屋」を意味する。ドイツ人学者ディオゲネス・トイフェルスドレックの衣服哲学に関する書物を編纂補綴し、解説をして出すという手法をとっており、トイフェルスドレックが仕立て屋であるならば、これはその仕立て直しに他ならぬからである。トイフェルスドレック(悪魔の糞の意)はもちろん、作者カーライルの分身である。内容は、衣服哲学と衣服哲学者トイフェルスドレックの伝記との二つからなる。ここでは前者のみを取り上げることにする。 衣服哲学では、社会宇宙すべてのことを衣服で説明している。肉体は霊魂の、自然は神の衣服であり、宗教も神聖な観念を象徴する衣、時間や空間さえも習慣が織る衣である。社会の組識機構も、たえず擦り切れてゆくと共に新たに織りなされる衣といった具合で、残る実体は神秘不可思議の霊のみとなる。こうしてカーライルの「超自然主義」に達するのである。 衣服とは何か。また、着衣の目的は何か。ここでは『衣服哲学』に記される衣服の観念を中心に、あるいは問題提起として、身分標識としての衣服の役割を見ていくことにする。 1.着衣の目的 人間はなぜ衣服を着るのか。『衣服哲学』第1巻第5章の「着衣の世界」(The World in Clothes)でのカーライルの見解は次の通りである。
哲学的の反省や、時としては人生の感じ深き描写が挿入されている。この種のものでは次の一節が我等を驚かした。我が教授の想像によれば、衣服の第一の目的は保温でも礼儀でもなく、装飾であった。(略)飢餓と報復との渇望が一度満たさるるや、彼の第一の関心事は安楽でなくて装飾であった。保温の手段は彼は之を狩猟の労苦の中に、或は、木の空洞や、樹皮の小屋や、自然の洞穴に於ける枯葉の床の中に見出した。併し装飾の為には衣服をもたざるを得ない。否な、野蛮人に間に於ては、文身や彩色が衣服に先行することを我等は見出す。未開人の最初の精神的欲求は装飾である。そしてそれは文明国の未開の階級に於て今日なほ見得るところである。(下線・引用者) 自然的毛衣を有していた人類が、いかなる経緯によって着衣するに至ったのか。カーライルの見解はなかなか的を得たものである。服飾史の見地では、櫻井秀氏が3つの起源を記している。
気候の変化に適応するため──これを衣服発生の主因とする考は「常識的見解」なりとして一部の学者に否定されてしまつた。けれども、此種の見解が全然採るに足らぬものとも思はれない。殊に服飾形式の分化したことは、主として此種の事情に基くものと見てもよからう。 櫻井氏は上記の諸説だけでは定め難いとしている。他にも、特に女装に関しては性的心理によって解明しようとする説もある。 保温と装飾、櫻井氏が記すようにこの2点がほぼ常識的見解であろう。ところがカーライルは前者を否定し、後者、すなわち着衣の起源を装飾的観念に求めている。衣服哲学の方向性を鑑みればおおよそ納得できる。聖書では羞恥の念が要因である如きである。気になるのは「文身や彩色が衣服に先行する」以下の個所である。精神的欲求云々という点に関しては、確かに納得できる。文身は装飾といっても過言ではない。猪熊兼繁氏は次のように述べている。
「文身」は「刻画其身、以為文也」というイレズミのことであることは、申すまでもない。人間の肉体に加工したものにはほかならない。それは、決して服、被服というものではないようである。肉体の上に何か他物を被らせる着物とは異なったものである。けれども、これはたしかに人間が加工したもので、自然のままではない。被髪、断髪、結髪という頭髪の加工も服飾のひとつと考えるのなら、この「文身」もまた人間の服飾とみてよいであろう。 文身に関しては『魏志』倭人伝の「黥面文身」の記事を見ると、そこに呪術的なものが含まれていることは明らかである。では、装飾として発生したものがやがて呪術的なものへと移行したのだろうか。次の章で確認するが、倭人伝では呪術的なものから装飾へと変化していったと記してある。カーライルは着衣の起源として装飾をあげているが、はたして、装飾に対する意識はどのようなものあったか。 2.呪術的なものとしての装飾 『魏志』倭人伝の黥面・文身の慣習の記事は次の通りである。
男子は大小となく、皆黥面文身す。(中略)夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟竜の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身しまた以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異り、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東冶にあるべし。(下線・引用者) ここでは、まず呪術的な目的として黥面・文身が施され、後に装飾となり、その装飾の位置や大きさによって身分が決定されていると解釈できる。黥面・文身はいったい何の目的で施されるようになったのか、まず、その点から見ていくことにする。 A.黥面・文身の目的 ここでまず注目すべき点は、中国会稽地方の文身の例が引かれていること、その目的が倭人の慣習と同一と解されていることである。倭人伝に「夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟竜の害を避く」と同様のことが、「呉太伯世家」の『史記』の注「集解」に、
応劭曰、常在水中、故断其髪、文其身、以象龍子、故不見傷害。 とあり、呉越の風俗はその目的も同じであることがわかる。森氏は、
『淮南子』「原道訓」に注した高誘の説によれば、「文身とは、その体内に刻画し、其の中に点し、蛟竜の状をつくり、以って水に入れば、蛟害せず。故に以って鱗虫をかたどると曰うなり」とあって、いれずみにはみずちの姿を描くことによって、水中に入ったときに、みずちの害からのがれようとしたと解している。 と記している。これは倭人伝の「今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身しまた以て大魚・水禽を厭う」とも同じである。鳥居龍蔵氏も、
「倭人伝」には文身の図様の記述は少しも書いてありませんが、夏后少康子その他の例文から考えますと、殊更に書きこそしませんが、龍子の如き図様を文身にしたように考えられます。 と同様のことを述べている。鳥居氏はさらに類例として、『後漢書』の「西南夷伝」によると、雲南省西南部の哀牢夷の先祖は竜と関係があり、そのしるしとして竜文を文身し、衣には尾がついていると記されていることを指摘している。大林太良氏は、水中の動物から危害を受けるのを防ぐために竜の文身をする習俗の他の例として、ベトナムの年代記における安南王の身体に竜の文身をほどこしてあることや、この他にビエンチャン以南のメコン流域のラオ族(ラオスおよび東北タイ)、ミクロネシアのヤップ島の例を挙げ、その分布の中心は中国南部、ことに江南の地であったと述べている。文身をほどこす目的は、どれも共通していることがこれでわかる。すなわち、水中においての被害を防ぐための呪術的な目的としてである。 B.黥面・文身に対する意識 呪術的なものとして施された黥面・文身に対する意識はどのようなものであったか。まず、中国文献の記事から見ていくことにする。 倭人伝の「夏后少康の子」について、『史記』「越王句践世家」は次のように記してある。
文身は「南方の夷狄の風習」である。また、「莱地を披」くという表現からそこが未開の地であったことがわかる。このような記事は、『史記』「周本紀」「呉太伯世家」にも見える。
呉は荊蛮のなかに南下して国を建てた周一族と同姓の姫姓の国とされている。伝説によれば、中国には、黄河流域を中心とした華北にいた漢民族である華夏族、山東半島を中心にいた東夷族、長江中流域を中心にいた三苗族の3集団がいたとされる。「荊蛮」とは、荊楚とか楚といわれるもので、三苗族の苗族に代わって春秋・戦国時代に長江中流域を中心に強国となり、北方の秦などと対抗している。同一の風俗を持つ呉と越の関係については、両国は互いに勢力争いをしながら山東から中原へ進出し、華夏の国々への仲間入りをはかったが、両国とも急速に衰え、前473年に越は呉を滅ぼし、前334年には越は楚に滅ぼされ、呉越の地は楚に併合されてしまう。 「用いらるべからざるを示して」、つまり、その風俗にそまると周の祭祀をつかさどるのに不適任だというのは、華夏文化とは相当異なった独特の文化であり、呉越が少なくとも中央政府にとっては未開もしくは蛮族の地であるという認識があったことが窺える。「文身・断髪」の風俗は呉越の人に共通で、同じく『史記』の「趙世家」に顕著に記されている。 それでは、記紀の黥面・文身の記事はどうであろうか。記紀においては「文身」ではなく、主に「黥」と表現される。
安曇連の死罪を免じ、墨に科したというこの(3)の記事や、鳥官の禽をその飼犬が噛み殺したことの罪として、菟田の人の面を黥して鳥養部としたという(5)の記事は、記の補注には、飼部(養部)即ち御料の鳥獣を飼う賎民を、良民と区別する為に黥を施していたものとし、紀の補注には、いずれも安曇部や鳥養部が行っていた入れ墨の慣習を、中国風の思想から説いた起源説話であろうとしている。さらに、入れ墨の例として(4)と(2)を挙げ、これらはいずれも、動物の狩猟・飼育などの特殊な職業に従事する集団に属する人々であり、日本の場合、眼のふちに入れ墨をしたことは(3)の他、(1)からもわかると述べている。また、目尻に入れ墨を施す習俗は、古代低層文化民族に多くみられるもので、今日の自然民族の間でも、パンジャブの土民、シエラ・レオネのティンメ族、テッサリアの奴隷、台湾の高砂族などで行われているという。それが天皇を中心とする畿内の日本人には異様な習俗と見えた点が重要とあり、呉越の「断髪・文身」の風俗が華夏の人にとって異様なものと映ったことと類似している。すなわち、日本でも「黥面」は、蛮族の風俗として見られていることがわかる。これについては喜田貞吉氏などが同様のことを論じており、和歌森太郎氏もまた同じである。以下の引用は和歌森氏の論による。
古代日本人のうちに、入墨の習いをもったものと、それを異とする人々とがあったこと、つまりいわば二重構造があり、古代国家形成の中心をなしたような有力者の側にはこれが乏しく、僻遠の取りのこされたような、あるいは圧服せられたものたちの間に、これが行われた形跡があったと考えられる。 黥面の慣習を持っている氏族として、安曇連、久米部等が挙げられている。 安曇連は、全国各地の海部を中央で管理する伴造。記には、上巻黄泉国訪問段でイザナギノミコトの禊に際して生じた底津綿津見神他2神の奉斎氏族として見え、さらに、綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫とし、新撰姓氏録の右京神別には「海神綿積豊玉彦神子、穂高見命之後也」とある。紀においては、神代第5段一書第6にも奉斎氏族としての記述があるが、応神紀3年11月条に処々の海人の平定の功により海人之宰となった大浜宿禰が安曇連の祖であるとする。他にも履中即位前紀や天武紀10年3月条、風土記では播磨の揖保郡、肥前の松浦郡などに散見している。 久米部は、大来目、来目部ともいい、大和朝廷の軍隊の中核をなしていた品部の一つで、神代紀第9段一書第4に見える。四国・中国地方を中心に、一部は東海道沿いに分布しており、早くからその中心は大和政権下にあった西国にあったとする。 海人とは、海・海士・白水郎(泉郎)などとも書かれるが、一般に漁業と航海に習熟した海辺の漁民をさし、海部については、朝廷に海産物を貢納する品部で、応神紀5年8月条に定められている。 これらはいずれも海に関係しており、特に海人にいたっては、一見して倭人伝の「倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身しまた以て大魚・水禽を厭う」や先に挙げた中国の例との類似点を見出すことができる。また、大林氏も金関丈夫氏の論に重ねて、北九州の宗像はもと胸形と書かれており、胸に鱗形の入墨をした海部の子孫であることを挙げ、倭人伝との関係を述べている。 記紀における「黥」が顔、さらにいえば目の周辺に集中していたことについて喜田氏は、
と述べている。これは、倭人伝の「後やや以て飾りとなす」にもつながるだろう。記紀では、中国の刑罰等の思想が入って次第に本来の目的から離れてしまうが、やはり、黥面の慣習を持つ氏族の特徴、そして宗像氏の例から、水中の動物から危害を受けるのを防ぐために黥をほどこしたことが窺える。 以上のことから、日中における黥面文身の慣習は、その目的や意識において同一あるいは同様であることがわかった。すなわち、呪術的なものとして作用しているのである。そして、倭人伝にあるように「後やや以て飾りとなす」と装飾としての意識に移行していったのである。 『衣服哲学』における衣服のとらえかたからいえば、装飾を起源とするカーライルの見解はおおいに頷けよう。そこには呪術的なことは記されていないが、『魏志』倭人伝や記紀などを見る限り、装飾というものは呪術的なものから発生したと考えられる。もちろん、装飾的意識に呪術的要素を付加させていったとの意見もあろうが、ここでは発言を差し控えておく。少なくとも、この章で扱った文献においては呪術的なものから装飾への移行であり、やがて倭人伝に「尊卑差あり」とあるように身分をあらわすものへと変化していったと考えられる。 3.身分標識としての衣服 A.スウィフト『ガリヴァー旅行記』にみえるガリヴァーとヤフー 衣服が、相手の正体を知る手がかりとなる可視的な身分標識となることは疑う余地もない。制服しかり。「ホワイトカラー」「ブルーカラー」という語もまたしかりである。衣服にはさまざまな情報が含まれているのである。 『衣服哲学』第1巻第5章の「着衣の世界」においてカーライルは、服装の説明を建築様式と組み合わせて述べている。そこには、文学作品における服装は、その人物等の身分や地位を示しているもので、それを知る知らないではその作品に対する印象も変わることを遠巻きながら述べている。なるほど、例えば平安朝の物語では、濃袴をはいている女性ならば中年、緋袴をはいている女性ならば年若いことを示している。どこでわかるかといえば、色目によるしきたりのためである。また、正装である俗にいう十二単は「女房装束」とも称し、女房は主人の前では敬意を払って正装しなければならないことに由来するということを知っておれば、物語の中に部屋でくつろいだ服装をしている者がその部屋の主人であることにおのずから気づくだろう。このように衣服には身分標識としての機能を充分に備えているのである。
「着衣の世界」にあるこの文は、標識としての衣服の役割を的確に示しているだろう。 ところで、後半の「衣服は我等を人間とした」という文から、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の第4編「フウイヌム国渡航記」を連想するのはそう難しいことではない。 スウィフトといえば、その著『桶物語』(The Tale of a Tub)の中で世界は衣服であるという説を唱えている。それがカーライルに衣服哲学の示唆を与えたことは、『衣服哲学』の訳者石田憲次氏をはじめ、疑いないようである。カーライルは『桶物語』を愛読し、『衣服哲学』第3巻第11章「仕立屋」(Tailors)には「さうしてスウィフトが天才の先見の明を以て漠然予想したところ、仕立屋は啻に人間であるばかりでなく、一種の創造者であり神であるといふ説が闡明顕彰せられるであらう」という文が見える。しかし、スウィフトの場合はローマ旧教と英国教会とピューリタン派との宗派争いを衣服の譬で説明した巧みさ以外には、ちょっとした簡単な思いつきが述べられているだけで本格的な発展は見せていない。カーライルのそれの方がはるかに精巧複雑で本格的である。ここでは『桶物語』ではなく『ガリヴァー旅行記』を取り上げる。理由は、その内容がおおよそ知られていることによる。 ガリヴァーは小人国においてささやかな優越を感じた後、巨人の国では虫けら同様の扱いを受けて自尊心を傷つけられ、ストラルドブラグ(不死人間)との対面において希望を失い、最後の馬の国では自己のあるべき位置を見失って人間嫌悪に陥ってしまう。 では、衣服について見ていこう。 第4編「フウイヌム国渡航記」は、いわゆる馬の国である。この未知の国に置き去りにされたガリヴァーは、ヤフーという奇妙な動物と遭遇する。
とガリヴァーはヤフーに対しての感想を述べている。この時、ガリヴァーはこの動物の正体を知らない。この国の知恵者である馬(フウイヌム)たちはガリヴァーを見て「ヤフー」という言葉を発しているが、その意味さえわからないのである。しかし、醜悪な動物と並べられて「ヤフー」という言葉を聞かされた時、ガリヴァーはその動物の名が「ヤフー」であり、自分がそれと同じ生き物として認識されていること、すなわち、目の前の醜悪な生き物が自分と同じ人間であることに気づくのである。
ガリヴァーのこのときの苦痛はたいへんなものであった。彼はいっそうヤフーを軽蔑し、自分とはまったく違う生き物であることを知的存在者であるフウイヌムに訴えるのである。この国に滞在する間、彼はヤフーを徹底的に蔑み、フウイヌムの知性に傾倒していくことによって、人間嫌悪に陥っていくのである。では、ヤフーとの違いをどのようにして主張したのか。
このように、ガリヴァーは衣服をまとうことによって、ヤフーとは全く別種であることを示していた。しかし、ある朝、主人(馬)の言付けでガリヴァーを呼びに来た下男(馬)によって、彼が「擬いものの皮膚」(衣服)をまとっていることが露見する。ガリヴァーはそのことを秘密にしてくれるように主人に頼む。それは、ヤフーと同一視されるのを防ぐためであった。衣服をまとうことによって、ガリヴァーは自らの人間──文明人と言い換えてもいいだろう──としての品位を保っていたのである。それはすなわち、衣服を脱ぎさえすればヤフーと同類だということをも示していよう。
フウイヌムは、服を脱いだガリヴァーを見てヤフーだと確信する。事実、川で素っ裸になって水浴びをしていたガリヴァーは、1匹の雌のヤフーにとって情欲の対象となったのである。衣服こそがガリヴァーとヤフーを区別していたものなのである。 この最後の渡航において、ガリヴァーは、衣服が人間をして人間たらしめるものであることを痛感するのである。 B.『魏志』倭人伝にみえる「悉可以示汝国中人使知国家哀汝」 人間であることを誇示する衣服が、可視的な身分標識としての機能を発揮するには、いわゆる点から線へ、ムラからクニへの発展が必要である。上下といった身分は、個ではなく、集団において発生するものなのである。ムラ(村)という語は、ムレ(群)を意味している。村にはキミ(君)と呼ばれる首長がいて村を治めるようになった。さらに時代の進行と共に、村々における生活の内容が変わってくると、平野や川の流域に散在していた小集落は次第に強いつながりをもつようになる。そしてついには隣接する村々は徐々に統合され、統合された広いひろがりの上に、それを統治する首長の出現を見るようになる。このようにムラの結集の拡大された段階をクニと呼ぶことができよう。クニの誕生は、同時にクニとクニとの間に勢力圏の対立をもたらし、激しい争いさえも生み出した。いわば点から点への関係において存在していたものをムラとすると、互いに一線をもって境に接するまでに成長したのがクニである。そこから、それを支配する首長のクニ意識が生じてきたのである。 『魏志』倭人伝に、耶馬台国はかつて男が王であったとき、長い間相攻伐していたという記事があるが、これはムラからクニへの統合を示していよう。『魏志』倭人伝には耶馬台国を含め、いつくものクニが連立していたことが窺える。そして、衣服による身分標識といった機能も見受けられるのである。 景初3年、朝貢した卑弥呼に対しての魏の明帝の詔書を抜粋する。
倭の五王がことごとく中国に対して朝鮮半島の諸国を統治する権利を求めていたことからもわかるように、中国側が、周辺諸民族首長層の懐柔政策として一番有効なのは爵号の賜与であると考え、その可視的表象として印綬を位置づけていたことはよく知られている。これについては武田佐知子氏が詳しく論証している。 『三国志』呉書、巻15の周魴伝には、
とあり、周魴が偽って魏に降服した風をよそおい、「在地の魁帥の協力で東呉を討つには、魏の爵号の賜与が有効である」として、将軍以下の印を魏に要請した密書の一部である。ここでは在地の魁帥を魏の側に引き入れる最も有効にして不可欠なものに印が位置づけられている。しかも、この印綬の賜与は、おおむね朝服といった衣の賜与が伴うのであった。 武田氏によれば、印綬と衣服の機能は異なる。『漢書』朱買臣伝はその相違を示唆してくれるという。
武田氏の解説はだいたい次の通りである。朱買臣が、故衣──おそらく彼が不遇時代に着用した、庶人の衣服──を着用し、印綬を懐に入れて、徒歩で郡邸に出向くと、誰も彼が太守に任ぜられたことに気付く者はなかった。印綬は通常『史記』蔡沢伝に、「懐黄金之印、結紫綬於要」とあるように、印のみを懐に入れ、綬は腰に結んで佩行するのであるが、ここで朱買臣は綬をも懐にして邸に赴いている。その限りでは彼は庶人を表象する標識である故衣以外の何ものをも身につけていなかったのである。しかし彼が綬をちらりと見せると、それを怪しむ者があり、懐から綬を引き出し、太守の章を確認して大騒ぎになったという。 このことは、衣服が着用する人の身分を識別する指標として、きわめて大きな機能を持っていることを示すと共に、印綬が腰に佩する服飾品の一つでありながら、中国国内ではいかに決定的に身分の標識たりうるかを明らかにしていよう。 だがこれは、印綬が、その機能を正当に行使しうるような、文書行政機構、官僚制的身分秩序の成立をまってはじめて可視的身分標識としての機能が発揮されるのである。買臣を怪しんだ守邸に、印綬に関する認識が備わっていなかったとすれば、会稽太守でありながらも相応の衣服を着用しなかったために、買臣は不届きな輩として邸を放り出されるか、最悪の場合には命をも失ったに違いない。したがって、それらの機構・秩序がまだ成立していない社会にあっては、体全体で身分を表現できる衣服の強烈な視覚的効果が、印綬に優越して期待されるのである。 そこで倭人伝の記事に戻るが、卑弥呼は印綬とあまたの品々を下賜されている。卑弥呼が魏に使いを送ったのは、魏の権威を後ろ盾として自らを他のクニより優位に置くためであるが、その証である印綬をもって、自らの権力を充分に誇示しえたであろうか。残念ながら、印綬だけでは魏との関係を表示できなかったに違いない。その関係を表示しえたのは「悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし」と魏が指示しているように、その前文にある「特に」卑弥呼に与えられた剣や鏡といった具体的・可視的事物だったのである。 卑弥呼はおそらく、印綬だけでは「国中人」に魏との関係、さらには自らの権力を知らしめることができないと知っていたに違いない。詔書の最後に、「故に鄭重に汝の好物を賜うなり」と記されている。この記事から窺えるのは、中国製の具体的・可視的事物を倭の側から魏に対して賜与を求めたということである。 カーライルは「衣服は我等に個性を、差別を、社会組織を与えた。衣服は我等を人間とした」と見解を記したが、確かに、衣服は人間をして人間たらしめ、それを着用した人物の所属や身分を雄弁に物語る役割を持つことが以上から明らかとなった。
4.衣服のために生きる人々 人間は、いわば生きるために衣服を着るのであるが、『衣服哲学』には衣服のために生きる人々についても言及している。第3巻第10章「洒落者の団体」(The Dandical body)である。
カーライルはここで、洒落者すなわちダンディの本末転倒の愚を突いている。そして、ダイディズムのガイドブックともいうべきブルワー=リットンの『ペラム』(pelham,1828)がその愚行を地で示しているとして、これを完膚なきまでに揶揄しているのである。 ダンディの特徴は他にもある。彼が報酬として要求するものは、ただ、人々が彼の存在を認めることなのであるとカーライルは述べる。そして、ダンディというのは主にイギリスに見られるという。というのも、「ヨーロッパ中で最も富んだ而も最も教育の行届かぬ国として、かやうな妖怪変化を生み出すにちやうど持って来いの要素(即ち熱度と暗黒とのそれ)を提供してゐる」からである。彼らの神殿は「オールマックス」(Almack's)と名づけられ、読まれる聖典は流行小説、そして7ヶ条にもわたる信仰箇条があるという。ここでカーライルはダンディのことを「妖怪変化」と称し、「新時代に適応する」ような新しい変形体とみなしているが、では、はたして、ダンディにとっての衣服は、これまで見てきたような身分標識としての役割を持たないのだろうか。彼ら信仰箇条を例にあげて考えていきたい。
この条件は、彼らの神殿であるオールマックスでの服装規定にもなっている。オールマックスというのは、1765年にこの社交場を創設したウィリアム・オールマック(?〜1781)の名にちなみ、正式には「オールマックス・アッセンブリー・ルームズ」と称せられる。セント・ジェイムジズ・キング・ストリートにあって、リージェンシーのロンドンで最も規律の厳しい社交場として知られ、少なくとも1835年ころまではその分野で最高の権威を誇っていた。ここは、地位、富、才能、美貌の集合点であると同時に、流行、スタイル、エレガンス、作法など、何から何まで超一流であったのである。一週間に一度開催されるオールマックスでの舞踏会は、上流社会の7人の貴婦人からなる委員会によって運営され、彼女たちの厳格な統制のもとで招待客には厳しい条件がつけられていた。入場可能なのは、資格証明書の保持者か、あるいはしかるべき個人の紹介を得た者に限られる。オールマックスの入場資格を得ることは、流行界における第七天を意味し、有資格者の男性はすべてブリーチズに白のクラヴァットを着けることを義務づけられ、服装違反は絶対に認められなかった。ウェリントン公爵でさえ、ある晩ズボン姿で現れて、入場を断られたということである。 以上からわかることは、このイギリスで発生した不思議な人々もまた、ダンディたる身分を示すために卑弥呼と同様の気配りをしているということである。いや、ある意味においては卑弥呼以上であろう。そのことだけに心奪われている人々ということであるので。 まとめ 『衣服哲学』第3巻第3章の「象徴」(Symbols)においてカーライルは「象徴は何時も、見る眼をもつ人には、神性の微かな或は明かな啓示」と述べている。兵隊は軍旗と呼ばれる光沢のある木綿片のために死に、ハンガリーの国民は、オーストリアのヨーゼフ2世に奪われた鉄の王冠のために蜂起した。軍旗や王冠といったものが二つとない珍宝ならばいざしらず、その軍旗というのは「何処の市場で売つても三グロッシェン以上には迚も売れつこない代物」であるし、ヨーゼフ2世が奪った王冠も「大きさも値段も蹄鉄と殆ど違はない」鉄の塊だと記している。そんな馬の蹄鉄ほどの価値しかない王冠だが、しかしその蹄鉄が盗まれたからといって人々は暴動を起こさない。だが、王冠が盗まれたら人々は暴動を起こす。それが「象徴」なのである。
カーライルが記すのは、精神的な意味においての「象徴」であるが、衣服の機能についてもまた同じことがいえるだろう。衣服の役割を『衣服哲学』を中心に見てきたが、それは時代を問わないことがわかった。ただ、『ガリヴァー旅行記』で見たようにヤフーに代表される衣服(装飾としての文身も含まれる)に対する意識を持たない者(社会)には、当然ながら衣服の機能など望むべくもない。衣服が、可視的な身分標識としての機能を発揮するには、衣服への意識を持ち、かつ集団(クニ)が必要である。その条件さえそろえば、指標としての衣服は機能し続けるのである。
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