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発表013

幻想の効用:平賀源内『風流志道軒伝』を中心に

毛利 美穂


はじめに

 平賀源内『風流志道軒伝』全5巻は、浅草奥山で評判の舌耕家、深井志道軒を主人公にかり、それが諸国遍歴の経験する姿をもって当時をうがち諷した談義本の一である。内容を簡単に見ていくと、巻之一では、寺で修行中の深井浅之進が仙人より「羽扇」を授けられ、巻之二では江戸の年中行事を見、巻之三では遊里をことごとく回った後、大人国、小人国に赴き、巻之四ではさらに長脚国などの異国を遍歴し、巻之五では女護ヶ島に辿り着くものの「遊男」の生活に飽きたところを仙人によって帰国をはたして「道に志」して志道軒と名乗り、浅草観音境内において講釈師となったという話である。

 この作品には、大人国・小人国、さらに長脚国・長擘国・穿胸国といった珍しい国が描かれている。この国々は『淮南子』や『和漢三才図会』などに載っており、古来からある中国伝来の知識とみるのが一般となっているが、源内はこれらの国の名称と特徴を踏まえた上で、自由な発想をもって描いている。その手法は幻想小説に該当するだろう。

 源内は幻想をもってなにを描きたかったのか。また、幻想がもたらす効果とはいかなるものか。ここでは、幻想は諷刺の手段か否かに焦点をあてて、幻想の効用を見ていくことにする。

  1. 諷刺とは   
  2. 諷刺の手段としての幻想   
  3. スウィフト『ガリヴァー旅行記』との類似・相違点   
  4. 『志道軒伝』における幻想

1.諷刺とは

 『風流志道軒伝』は深井志道軒の伝記という形をとりつつ、自由に幻想世界を飛び回り、その随所には世間に対する諷刺が描かれている。いったい、諷刺はどのような理由から描かれるのだろうか。諷刺とはいかなるものなのか。

 まず、三宅川正氏『英文学におけるユーモアと諷刺の伝統』から、諷刺の本質について要約する。

 三宅川氏によると、文学における「笑い」の要素は、作品の豊かさを増すための色付けや味付けをするものと見ても差し支えはないとある。ひと口に「笑い」といってもいろいろなニュアンスを帯びており、その表われ方も多様である。滑稽、哄笑、微笑などの他、反語ないし皮肉を利かせた嘲笑、冷笑、あてこすり、それらいくつかを組み合わせてのユーモアや諷刺などもあって、それらの間の区分や関係も複雑である。仮に分類してみると、ユーモアとか哄笑、微笑などは、だいたい温かい同情的な笑いに属するもので、これらを一括して「ユーモア」的笑いとすれば、嘲笑とか冷笑とかあてこすりなどは、冷ややかで突き放す風があり、往々にして非難攻撃を含んでいて、これを概して「諷刺」的な笑いといい、大きく2種類に分けることができる。もっとも、これらの一応の区分類別は決定的なものではなく、互いに交錯するものを持っており、三宅川氏はこれらをすべて総称して「笑い」としている。また、「笑い」の論理として、その対象のあるがままと、そのあるべきこととの対比、ないし現実と理想との間の対比に気づいて、その間にある価値観の対立・不調和、不釣り合いを知覚し、それをおかしいと思いあるいは思わせるところに「笑い」が生ずると述べている。すなわち、笑い(諷刺とユーモアを含めて)の生ずる根元を考えてみると、ある対象を別の価値観から見て、そこに価値のコントラストないし矛盾を感じてこれを表現するとき、笑いを生ずるといえるとある。また、その際、その対象のもつ価値、あるいはその行為や人物に対して、軽蔑や非難の気持ちを感じて、これを嘲笑的に(しばしば皮肉という手段を用いて)表現するとき、諷刺となるとまとめている。

 以上のことから、諷刺とは、滑稽感を誘発させる価値観の相違に対してこれを軽蔑し嘲笑することを示していると考えられる。

 『志道軒伝』にはいたるところに諷刺が織り込まれているが、巻之一および巻之五における風来仙人の説教には直接的な世相罵倒が繰り広げられている。巻之一には「されば味噌のみそくさきと、学者の学者くさきはさんざんのものなりとて(下略)」とあり当代の儒者学者に当たり散らしている。その批判は、浅之進が穿胸国を去った後に訪れた「うてんつ国」「きやん嶋」「愚医国」「ぶざ国」「いかさま国」などの国の紹介にも反映され強調されている。このように虚構(幻想)を用いて諷刺がなされているのである。

 それでは、諷刺を描くために幻想が用いられたのであろうか。また、幻想を用いて諷刺を描くことによってどのような効果を求めていたのだろうか、次に考えていく。


2.諷刺の手段としての幻想

 先に、諷刺は価値観の相違によって生じるものという三宅川氏の見解を記した。そうすると、幻想の世界というのもまた現実世界とは価値観が異なる世界であり、充分諷刺が生じる要素を有しているといえる。では、諷刺と幻想は、源内にとってまったく別のものとしてとらえられていたのだろうか、それとも、同系列のものとして認識されていたのだろうか。そこで、源内の他の作品について見ていく。

 源内の作品のうち『志道軒伝』だけが幻想を用い、かつ諷刺や滑稽を描いているわけではない。源内は宝暦13年(1763)9月に『根南志具佐』を発表している。これは同年に起こった実際の事件、つまり6月に有名な江戸俳優荻野八重桐が隅田川で舟遊中溺死したことを題材にしている。この作品のおもしろさは事件をそのまま報道するといった形ではなく、その事件を基軸にしてまったく別な構想を練り込んでいるところにあると思われる。すなわち、この作品の舞台はほとんどが地獄や竜宮という幻想世界にあり、八重桐事件などはほんの景物にすぎないのである。簡単に内容を見ていくと、全5巻のうち、第1巻は閻魔大王が地獄に来た僧侶から当代の名優で若女形の瀬川菊之丞の絵姿を見せられて、うっとりとし、なんとか菊之丞を呼び寄せようとして竜王に言いつける。第2巻は地上の話で、菊之丞と八重桐があまりの暑さに6月15日に隅田川に涼船を浮かべようと相談する。第3巻は竜王が物見の魚どもを使って地上の様子を探らせ、両人が6月15日に舟遊することを知り、河童に言いつけて菊之丞を水中に引き入れる手筈を決める。第4巻は舟遊中の菊之丞と変装した河童との対面、第5巻は河童の告白によって菊之丞が水に入ろうとしたとき、八重桐が代って飛び込んでしまうということで終わる。このように、この作品は幻想の趣向が見られる。また、『志道軒伝』と同様、作中のいたるところに諷刺と滑稽が記されているのである。

 源内が幻想を用いたことについて、野田寿雄氏は「風来山人論」において次のように述べている。

源内の小説論から云えば、実事を踏まなければならないが、実事を棒のごとく大きく構成するのが虚の実であって、これが彼の小説の理想であったということになる。それからすれば、この『ねなしぐさ』も確かに実事を踏まえているけれども、大事な狙いは実よりも虚であって、その虚は先行小説からヒントや影響を受けたのであり、(下略)

 つまり、事実を強調するために幻想が用いられているのである。この事実とは何か。巻之五の風来仙人の説教から考えると、それは僧侶や学者、医者や武士に対する軽蔑や嘲笑であろう。風来仙人は浅之進に対して世間とはどういうものかを説き、浅之進はまた仙人から授かった「羽扇」によって日本の風物や各国をめぐり、物事の本質を見極めていく。その過程を描くために幻想は用いられているのであり、志道軒の存在は物語の構想の基礎として位置づけられていると考えられる。


3.スウィフト『ガリヴァー旅行記』との類似・相違点

 『志道軒伝』が各国遍歴を描き、また訪れるのが大人国小人国といったおよそ現実離れした構想であることから、有名なスウィフトの『ガリヴァー旅行記』を連想するのはそう難しいことではない。この問題については野田氏同様、浅野三平氏の「志道軒をめぐる二・三 ――源内のことども――」にも触れられている。これらによると、『ガリヴァー旅行記』が出版されたのは1726年で、『志道軒伝』が発表されたのは1763年、つまり両者の間には37年の差があり、なんからの理由で前者がオランダを通じて長崎辺りにもたらされる可能性も微弱ながらある。だが、この点についてはすでに先人によって『ガリヴァー旅行記』の影響は否定され、『和漢三才図会』などに見るように中国伝来の知識としてみることが妥当とされている。実際『淮南子』巻4堕形訓には次のような記事がある。「凡そ海外に三十六国あり。西北自り西南方に至るまで、脩股の民・天民・粛慎の民・白民・沃民・女子の民・丈夫の民・奇股の民・一臂の民・三身の民有り。西南自り東南方に至るまで、結胸の民・羽民・讙頭国の民・裸国の民・三苗の民・交股の民・不死の民・穿胸の民・反舌の民・豕喙の民・鑿歯の民・三頭の民・脩臂の民あり。東南自り東北方に至るまで、大人国・君子国・黒歯の民・玄股の民・毛民・労民有り。東北自り西北方に至るまで、跂踵の民・句嬰の民・深目の民・無腸の民・柔利の民・一目の民・無継の民有り」。

 ここでは、両者の影響関係を見るつもりはない。ただ、同時代に著された両者に構想上の類似・相違点が見られたことを少し記したい。

 『ガリヴァー旅行記』の内容についてはおおよそ知られているので、現在までの研究の概要について四方田犬彦氏の『空想旅行の修辞学』から引用する。

『旅行記』は1726年に刊行以来このかた、さまざまな解釈評価を体験してきた。18世紀のヨーロッパ人は現実の政治諷刺として、またキリスト教説教集としてこの書物を読んだ。19世紀は、作者狂人説をもとに、気まぐれに書かれた人間嫌いの人類侮辱の書として読んだ。20世紀はここにフロイトの先駆を見、全体主義的反ユートピアへの警句を読み取った。子供の童話にしてブラック・ユーモアの始まりという評価の分かれ方。こうした解釈はつねにその時代の文学――人間観の地平のうえで行なわれ、それぞれに正統性を主張しつつ、おそらく今後も無限に続くであろう。大切なことは、多様な解釈の可能性を潜在的に秘めている作品の両義的なあり方であって、したがって個々のアレゴリーの指示内容を一通りに決めて よしとする以上の読み方が要求されるのである。『旅行記』は故意に複数の解釈が同時に生じるように書かれた作品である。

 実に複雑な問題を含んでいる『旅行記』である。ではさっそく『志道軒伝』との類似点を見ていきたい。

 空想旅行記は、通常、地上の人間が到達できない異界において展開する。異常な状況や非日常的空間、さらには月やオリュンポスや冥界などが舞台となる。だが、これは単なる幻想ではなく、日常生活の中で誰もが見逃してきた哲学的観念を別の視点から検討し直すための手法である。これは『志道軒伝』にも同様のことがいえよう。また、両者には言語遊戯が見られる。『志道軒伝』では語呂合わせによって流れるような文章になっているのに対し、『旅行記』では夥しい造語癖が見受けられる。例えば、Laputa、Climenoleといったふうにスペイン語風の陰影を込められることもあれば、Tribinia、Langdensといったふうに、BritainとEnglandの単純なアナグラムの場合もある。また、Houyhnhnms、Ynlhmndwihlmaのように馬の嘶き声を元にした発音不可能な造語も登場する。そして、両者に共通する国としてリリパット国(小人国)とブロブディンナグ国(大人国)がある。リリパット人もブロブディンナグ人もスウィフトにとってはヨーロッパ人に異化を施すために仮に設置された形象であって、つまりそれは、同時に異なった視座から観察されたイギリス人である。『志道軒伝』の大人国や小人国に描かれているのは嘲笑するに値する当時の日本人である。他に作者自身に関する類似点といえば、スウィフトも源内も多くのペンネームを持っていることがいえる。

 相違点についてはどうだろうか。それは『志道軒伝』が読後愉快な気持ちになれることに対し、『旅行記』は読後、救いがたいほど不愉快で暗い気持ちになることである。それはひとえに『旅行記』の諷刺が諸刃の剣であり、対象者を切ったその反動で読者や話者をも切ってしまうところにある。これについて四方田氏はケネス・バーク『歴史に処す』を引用している。「諷刺家が攻撃するものとは、他者のうちにあるが本当は自己のなかに存在している弱点と誘惑である。諷刺の仮託投影の過程は次のように素描することができるだろう。今、ここにAとBがある個人的悪徳を共有していたとする(窃盗癖でも、男色でも、サディズムでも、社会的出世への野心でも、何でもよい。しかも潜在、顕在の度合は問わない)。また同時に、公的な場で特定の主義をめぐって対立しているとする(二人は、衝突しあう意見をもった二つのセクトに属しているのである)。Aを諷刺家とする。AはBを政治的立場から痛烈に罵倒することでAB両者がともにわかちもっている秘密の悪徳の映像を公にする。かくしてAは自己のなかの悪徳を満足させ、そしてそれを処罰するのである。おのれの振った鞭に打たれるのであろうか。しかり」 このように「諷刺された諷刺家」のテーマでは、諷刺家自身すら安全地帯に留まることを許されず、自分のよって立つ足場を切り崩されることになる。笑うものがただちに笑い返されるのである。ガリヴァーは小人国においてささやかな優越を感じた後、巨人の国では虫けら同様の扱いを受けて自尊心を傷つけられ、ストラルドブラグ(不死人間)との対面において希望を失い、最後の馬の国では自己のあるべき位置を見失って人間嫌悪に陥ってしまうのである。このように『旅行記』ではガリヴァー自身も諷刺の対象となり、救いのない結末を迎える。これに対して、『志道軒伝』では浅之進は物事の本質を見極め、仙人の教えに従って講釈師になるという明るい結末を迎えるのである。これは、イギリスにおけるユーモアと諷刺の意義が、日本のそれとは異なることが原因であろう。

 『志道軒伝』と『旅行記』には構想上の共通点が見受けられるが、諷刺の手段として幻想が用いられていることもまたいえるのである。


4.『志道軒伝』における幻想

 幻想文学について四方田氏はロジェ・カイヨワの見解を記している。要約すると、ロジェ・カイヨワは広義の幻想文学を論じるさいに「妖精的なるもの」と「幻想的なるもの」を分類することを提唱している。妖精性とは、伝説や仙女物語、童話に一貫して流れている雰囲気であり、この段階では、現実の統一的秩序を破壊することなしに非現実(あるいは超現実)が出現し、両者は矛盾衝突することなく混合しあっている。一方、時代が下がり、科学的合理主義を背景とした恒常的な現実の意識が抬頭したときに登場するのが、幻想性であると定義している。この段階では、非現実は現実に対する侵犯行為であり、両者の対立は日常性に対して亀裂や断層を招くことになると記している。

 ロジェ・カイヨワの分類を見ると、『志道軒伝』における幻想は妖精性であろう。大人国も小人国も穿胸国も、主人公浅之進の属する世界とはまったく異なった形態、風俗、信仰のもとにあるが、ともに人間としての同質性を根本的な前提としたうえで描写されている。そして、異なった視座から観察することによって諷刺が描かれているのである。

 以上のことから、『志道軒伝』における幻想の効用は、諷刺の強調であると考察するのである。


参考資料

  • 日本古典文学大系『風来山人集』(岩波書店、1961)
  • 野田寿雄「風来山人論」(『近世小説史論考』、塙書房、1961)
  • 浅野三平「志道軒をめぐる二・三 ――源内のことども――」(『近世中期小説の研究』、桜楓社、1975)
  • 三宅川正『英文学におけるユーモアと諷刺の伝統』(関西大学出版部、1981)
  • 『近世文学研究事典』(桜楓社、1986)
  • スウィフト『ガリヴァー旅行記』(平井正穂訳)(岩波書店、1993)
  • 夏目漱石『新装版 文学評論』(講談社、1994)
  • 四方田犬彦『空想旅行の修辞学 「ガリヴァー旅行記」論』(七月堂、1996)

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